カーカティーヤ朝(読み)カーカティーヤちょう(英語表記)Kākatīya

改訂新版 世界大百科事典 「カーカティーヤ朝」の意味・わかりやすい解説

カーカティーヤ朝 (カーカティーヤちょう)
Kākatīya

南インドの中世ヒンドゥー王朝。1100ころ-1323年。はじめチャールキヤ朝に従属してテーリンガーナーの一地域を領したが,12世紀前半,パロラ2世のとき独立し,チャールキヤ朝の衰退に乗じて勢力を広げた。13世紀,ガナパティGanapati(在位1199-1261)の長い治世は王朝の最盛期で,ワランガルに城塞を築いて都とし,チョーラ,チャールキヤ両王朝の滅亡による混乱期に,ヤーダバ,ホイサラ,パーンディヤなどの諸王朝と争って,アーンドラ地方を中心として領土を拡大した。そのあと娘のルドラーンバーRudrāmbāが女王となり,主としてヤーダバ朝と抗争し,次のプラターパルドラ2世(在位1295-1323)のときまで,南インドの大国の一つであった。だが,デリームスリム王朝の南インド征服を受け,1310年マリク・カークールの遠征によって都を占領され,その後勢力を回復したが,23年,ウルグ・ハーンの軍隊に再び侵略され,王朝は滅びた。この王朝は行政・軍事制度を整備し,77ナーヤカ制も樹立し,また外国商人を保護するなど貿易・商業を活発にした。宗教文学建築の面でめざましい発達をとげ,とくにテルグ文学は隆盛で,多数のサンスクリット古典がテルグ語に訳された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カーカティーヤ朝」の意味・わかりやすい解説

カーカティーヤ朝
かーかてぃーやちょう
Kākatīya

南インドの王朝。11世紀初頭から1326年までデカン高原東部を支配した。最初はチャールキヤ朝の封臣の地位にあったが、しだいに勢力を増し、12世紀前半プローラ2世の治世に独立した。13世紀のガナパティ王のとき最盛期を迎え、デカン西部のヤーダバ朝、ホイサラ朝とともに、南方タミル地方のチョーラ朝の地に侵入し、その北部を併合した。その結果、王国の版図は、北はゴダバリ川から南はティルチラーパリ、西はメダックから東はベンガル湾に達し、海外貿易の利をも得て繁栄を続けた。首都ワランガルが築かれたのもこの時代である。しかし、1310年プラターパルドラ2世のとき、デリー・サルタナットの遠征軍に首都を落とされ、その痛手からは回復したものの、1323年ふたたび遠征軍の攻撃を受け、滅亡に向かった。13世紀後半のルドラーンバー女王の治世に、マルコ・ポーロが王国の港モートゥパッリを訪れている。

[辛島 昇]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カーカティーヤ朝」の解説

カーカティーヤ朝(カーカティーヤちょう)
Kākatīya

1100頃~1323

インドのアーンドラ地方に興り,カルヤーナのチャールキヤ朝に従属していたが,12世紀前半その衰退に乗じて独立した。12世紀末~13世紀はその勢力が強大で,隣接した諸王国と争い,都のワランガルは繁栄した。1310年と23年にデリーのムスリム軍に襲われて,ついに衰退した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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