キャフタ協定(読み)きゃふたきょうてい

山川 世界史小辞典 改訂新版 「キャフタ協定」の解説

キャフタ協定(キャフタきょうてい)
Kiakhta 恰克図

1911年,清朝が崩壊すると,外モンゴルハルハ地方の王公,仏教界指導者はモンゴル独立を宣言した。しかし中華民国はモンゴルの独立を認めず,ロシア帝国政府の外交介入により,14年9月からキャフタでロシア,中国,モンゴルによる三者会談が行われ,15年6月に締結されたキャフタ協定により,中華民国宗主権下の外モンゴル自治が承認された。現在のモンゴル国領域は,このキャフタ協定に由来する。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のキャフタ協定の言及

【キャフタ会議】より

…かくしてこのモンゴル問題の最終的解決のため,ロシア,中国,ボグド・ハーン政権三者による会議がキャフタ(恰克図)において行われた(1914年9月~1915年6月)。この結果締結された〈キャフタ協定〉で,ボグド・ハーン政権による中国宗主権下の外モンゴル自治およびロシアの外モンゴルにおける特殊経済権益が認められた。このような外モンゴルの地位は,ロシア革命後,1919年中国により一方的に取り消されるが,キャフタ協定で認められた外モンゴル自治領域が,今日のモンゴル国領土の起源となるなど,多くの影響をのちに及ぼした。…

【モンゴル】より

… 同年10月辛亥革命により清朝が倒れると,ハルハの王公・仏教僧は独立を宣言,ウルガ(ウランバートル)の活仏ジェブツンダンバ・フトクト(ボグドゲゲン)を皇帝とするボグド・ハーン政府を樹立した。ボグド・ハーン政府は内モンゴルをも含めた大モンゴル国建設をめざしたが,ロシアは当時の国際情勢を考慮し,中国宗主権下で外モンゴルに自治を行わせることで問題を収拾しようとして,まずボグド・ハーン政府と〈露蒙協定〉(1912年11月)を結び,ついで中国との間で〈露中宣言〉(1913年11月),最終段階として関係3国による〈キャフタ協定〉を15年6月に調印した。この協定により,ボグド・ハーン政府は中国宗主権下の外モンゴル自治政権として承認された。…

※「キャフタ協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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