ギニアビサウ(英語表記)Guiné-Bissau

改訂新版 世界大百科事典 「ギニアビサウ」の意味・わかりやすい解説

ギニア・ビサウ
Guinea-Bissau

基本情報
正式名称ギニア・ビサウ共和国República da Guiné-Bissau 
面積=3万6125km2 
人口(2010)=150万人 
首都ビサウBissau(日本との時差=-10時間) 
主要言語ポルトガル語,クレオール語 
通貨CFA(中部アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine

西アフリカの共和国。西は大西洋に面し,北はセネガル,東と南はギニアと国境を接している。

国土は大陸本土と沿岸ビジャゴス諸島などから成っている。国土の大半は低地で,本土には多くの川(カシェウ,ジェバ,コルバル,リオ・グランデ)があり,大西洋に流れこむ。海岸は深い入江が多く,河口にはデルタが広がる。気候は典型的な熱帯気候である。雨季は6~11月,乾季は12~5月で,年降水量は約2000mm。月平均気温は25~30℃で,4~5月が最も高く,12~1月が最も低い。

アフリカ人社会は大別すれば,東部の半封建的であったフルベ(フラ)型社会,西部の未階層化バランテ型社会,そして中間社会に類別できる。人口の多い順に部族構成を示せば,バランテ族(総人口の約30%),フルベ族(20%),マンジャク族,マリンケ(マンディンゴ)族,ペペル族(以上が主要5部族),さらにマンカニヤ族,フェルプ族,ビジャゴ族などである。またムラート(ポルトガル人とアフリカ人の混血),シリア人やレバノン人の商人もいる。ポルトガル文化に同化したアフリカ人はアシミラードと呼ばれた。宗教では伝統信仰のアニミズムが人口の約70%を占め,バランテ族に多い。イスラム教徒は人口の約30%を占め,フルベ族に多い。キリスト教は1%に満たない。言語は公用語がポルトガル語であるが,クレオール語(アフリカ化されたポルトガル語)が共通語として広く用いられる。

1446年,ポルトガルのヌノ・トリスタンがこの地方の海岸にヨーロッパ人として初めて到達した。以後,ポルトガル人がベルデ岬諸島の植民地化に大きな役割を果たした。1687年,ビサウに貿易基地が設立され,19世紀まで奴隷貿易が行われた。1879年ベルデ岬諸島と統治上は分離され,86年フランス領アフリカ植民地との境界線が確定した。ポルトガル人の上陸以来,アフリカ人はポルトガルの植民地主義に一貫して抵抗,反乱を展開し,いわゆる平定作戦にもかかわらず,ポルトガルがギニア・ビサウを軍事的に占領しえたのは1936年になってからのことである。51年のポルトガル憲法改正によって,従来の植民地から海外州となった。

 56年9月,民族解放運動組織PAIGCギニア・カボベルデ独立アフリカ人党)がアミルカル・カブラルの指導下にビサウで創立された。59年8月,ビサウの造船労働者のストライキにポルトガル軍が大弾圧を加えた(死者50人)のを機に,PAIGCは戦術を武装闘争に転換し,60年PAIGCは独立を要求する書簡をポルトガル政府に送ったが,ポルトガル政府はこれを拒否した。政治宣伝と準備の後,PAIGCは63年から植民地解放を目ざす本格的な武装闘争を開始した。65年10月,アフリカ統一機構はPAIGCを承認し,72年にはPAIGCは領土の4分の3を解放し,民族人民議会選挙を成功させた。73年7月,PAIGC第2回大会が開催され,同年1月に暗殺されたA.カブラルに代わってアリスティデス・ペレイラが書記長に選ばれた。73年9月,民族人民議会第1回大会が開かれて独立が宣言され,同時に憲法が採択され,国家革命評議会議長(元首)に故A.カブラルの弟ルイスが選出された。同年11月の国連総会はギニア・ビサウを独立国として承認する決議を可決した。74年4月,ポルトガルで政変が起き,同年9月,新政権はギニア・ビサウの独立を正式に承認した。76年4月にはカボベルデ(1975独立)との法体制統合について議定書を交わし,両国の統合に向けての第一歩を踏み出した。しかし80年11月,カボベルデとの統合に反対する本土出身のビエイラ首相がクーデタを起こし,カボベルデ出身のL.カブラル議長が追われ,ビエイラが新しい議長に就任した。このクーデタにより,両国の統合は遠のいた。84年5月,新憲法が制定され,ビエイラが国会により新設の国家評議会議長に選ばれた。

立法権は一院制の国民議会にあり,定員100人で任期4年の議員は普通選挙で選ばれる。行政権は国家元首である大統領にある。大統領は普通選挙で選出され,任期5年である。大統領は首相を任命する。複数政党制であるが,部族あるいは地域に基づく政党は認められない。旧宗主国ポルトガルとの友好関係は,1987年のポルトガル船拿捕(だほ)事件によって一時崩れたが,その後改善した。88年,カボベルデとの間に友好条約が締結された。セネガルとは,カザマンス(セネガル南部)の反政府運動をめぐる両国軍隊の衝突,海域資源の領有問題などがあり対立してきたが,95年,両国は協力協定を結んだ。識字率は低いので,教育改善運動が推進されている。小学校の就学率は38%(1988年)と低い。91年,大学設立計画が発表されたが,高等教育機関はまだない。

経済の中心は農業である。主要作物は米,メイズ,ミレットなど。換金作物はカシューナッツ,パーム核,落花生,綿花である。木材と牧畜もある。漁業は急速に発展している。ボーキサイト,リン鉱石,石油の埋蔵が知られているが,開発は遅れている。製造業は食料加工ぐらいである。最貧国で,1992-94年の1人当りGNPは240ドルであった。93年からIMFの構造改革を実施,94-95年のGDPは4.5%に回復した。97年から,フラン圏の西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA)に加盟した。貿易は大幅な入超であり,輸入相手国はポルトガルが第1位であり,輸出相手国はスペインが第1位である。主要輸出品は食料品(農産物,水産物),木材である。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ギニアビサウ」の解説

ギニアビサウ
Guiné-Bissau

西アフリカ,セネガルギニアの間に位置し,旧ポルトガル領であった共和国。19世紀までヨーロッパ諸国による奴隷貿易が続いた。ポルトガル植民地であったが,1951年,ポルトガルの海外州に指定された。56年,民族解放思想家カブラルの指導のもとギニア‐カボヴェルデ独立アフリカ人民党(PAIGC)を結成,3年後には武装闘争を開始。カブラルは73年暗殺されたが,74年,ポルトガルでの政変を機にギニアビサウの独立が承認された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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