ケマルアタチュルク

精選版 日本国語大辞典 「ケマルアタチュルク」の意味・読み・例文・類語

ケマル‐アタチュルク

(Kemal Atatürk) (「アタチュルク」はトルコ語で「父なるトルコ人」の意で、議会からおくられた称号) トルコ共和国の初代大統領(在職一九二三‐三八)。伊土戦争、バルカン戦争に参加し、第一次世界大戦では英仏連合軍を撃破。大戦後セーブル条約に反対し、大国民議会を召集共和制樹立した。大統領就任後、政教分離、身分制度の撤廃、男女同権の実行、トルコローマ字の採用など、近代化政策を推進した。ケマル=パシャ。(一八八一‐一九三八

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デジタル大辞泉 「ケマルアタチュルク」の意味・読み・例文・類語

ケマル‐アタチュルク(Mustafa Kemal Atatürk)

[1881~1938]トルコの政治家軍人共和国初代大統領。第一次大戦後、連合国への領土割譲を認めたセーブル条約に抗して、祖国解放運動を組織、1923年スルターン制を廃止して共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、議会からアタチュルク(父なるトルコ人)の称号を贈られた。ケマル=パシャ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ケマルアタチュルク」の意味・わかりやすい解説

ケマル・アタチュルク
Mustafa Kemal Atatürk
生没年:1881-1938

第1次世界大戦後におけるトルコの祖国解放運動の指導者。トルコ共和国初代大統領(1923-38)。ケマル・パシャとも呼ばれる。テッサロニキ下級官吏の家に生まれる。1896年テッサロニキの陸軍中等学校,99年マナストゥルの陸軍高等学校,1905年イスタンブールの陸軍大学卒業。ダマスクス駐屯の第5軍に派遣され,06年同地でアブデュルハミト2世に対する反専制運動を目的とする秘密結社〈祖国と自由〉を設立した。07年テッサロニキに移り〈統一と進歩委員会〉に参加,08年の青年トルコ革命後,革命首脳部と相いれず,軍務に専心した。13年ソフィア駐在武官となり,第1次世界大戦中,ゲリボル半島に上陸したイギリス軍を撃退して国際的にその名を知られ(1915),16年准将(パシャ)に昇進した。大戦後,トルコ分割をもくろむ連合国に抗して祖国解放運動を組織し,20年4月,アンカラにトルコ大国民議会政府を樹立して,連合国側にくみするオスマン朝スルタン政府(イスタンブール)に対し反乱を起こした。22年9月,西アナトリアのギリシア軍を追放して祖国解放運動に勝利すると,同年11月にスルタン制を廃止してオスマン朝を滅亡させ,23年7月に連合国との間にローザンヌ条約を締結してトルコの独立を確保,同年10月アンカラを首都にトルコ共和国を宣言し,その初代大統領となった。24年以降カリフ制の廃止をはじめとする一連の改革を実施しトルコ共和国の基礎を築いた。

 彼は,いわゆる青年将校出身の革命家タイプで,早くからイスラム教徒である両親と別れ,テッサロニキやイスタンブールの国際都市で青年時代を過ごし,フランス語に堪能な西欧型の知識人であった。一方では妥協を許さぬ強い性格の民族主義者であったが,終生のライバル,エンウェル・パシャとは違って徹底した現実主義者であった。アナトリア在住のトルコ人とともに闘った祖国解放運動の勝利と共和国期の世俗主義的な改革の成功とは,彼のこうした個性によるところが多い。その反面,独裁者として権力を掌握するために,多くの有能な軍人・政治家を失脚させ,彼の死後におけるトルコ革命後退の原因をつくった。34年には大国民議会よりアタチュルク(父なるトルコ人)の称号を与えられ,その権威は今なお絶大である。
トルコ革命
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世界大百科事典(旧版)内のケマルアタチュルクの言及

【ガージー】より

…トルコ年代記では,ガージー集団はトルコ語風にガジレルgazilerと記されるが,信仰戦士の性格は希薄である。近代トルコの祖国解放運動の中で,ケマル・アタチュルクはガージー・ムスタファ・ケマルとも称された。【小山 皓一郎】。…

【青年トルコ】より

…97年大弾圧によりオスマン帝国内の活動を停止,パリのアフメト・ルザAhmet Rıza(1859‐1930)らの海外活動が中心となり,トルコ人のほか,アラブ,ギリシア,クルド,アルメニア,アルバニアなどオスマン帝国下の諸民族の代表が参加するが,1902年,オスマン人としての立場を強調する中央集権派と諸民族の運動を尊重する地方分権派に分裂した。06年には,〈祖国と自由〉委員会を組織していたケマル・アタチュルクも加わり,テッサロニキに〈統一と進歩委員会〉本部を成立させた。08年ニヤージNiyazi(1873‐1912)らの若手将校の武装蜂起を契機として,憲法の復活を一方的に宣言,スルタンはこれを追認し第2次立憲体制期に入った。…

【トルコ学】より

…歴史学の分野では,ギボンズに代表されるヨーロッパ歴史学界におけるオスマン帝国の〈ネオ・ビザンティン帝国〉論に対する反論を通じて,ファト・キョプリュリュFuat Köprülü(1890‐1965)やトガンらによってトルコにおける近代歴史学の基礎がつくられた。23年にトルコ共和国が成立すると,その初代大統領ケマル・アタチュルクの主唱でトルコ歴史学会(1931),トルコ言語学会(1932)がつくられるなど,トルコ学の組織化が進んだ。第2次世界大戦後,トルコ学の国際化が進み,47年にイスタンブールに国際東方研究協会が設立されて,機関誌《オリヤンス》が発行されるようになり,また,51年にイスタンブールで開催された第21回国際東洋学者会議の決定によって《トルコ学総覧》が出版された。…

【トルコ革命】より

…トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがてムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタチュルク)が,1920年4月23日にアンカラに〈トルコ大国民議会〉政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン・カリフ政府に対して,公然と反乱。連合国は同年8月10日,スルタン政府との間にセーブル条約を締結してトルコ分割案を具体化した。…

【トルコ共和国】より

…これに対してトルコ人は各地に祖国解放運動を展開した。ムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)は,これらの運動を統合し,アンカラに国民政府を樹立して,連合国の傀儡(かいらい)と化したオスマン帝国政府の打倒,ギリシア軍,フランス軍など外国軍隊の追放を実現した。その結果,600年余の命脈を保ったオスマン帝国は滅亡(1922年11月スルタン制の廃止)し,23年7月のローザンヌ条約によって,セーブル条約が廃棄されてトルコの独立が国際的に承認された。…

※「ケマルアタチュルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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