ケルキラ島(読み)ケルキラトウ(英語表記)Kérkyra

デジタル大辞泉 「ケルキラ島」の意味・読み・例文・類語

ケルキラ‐とう〔‐タウ〕【ケルキラ島】

KerkiraΚέρκυρα》ギリシャ西部、イオニア海にある島。イオニア諸島北部ケルキラ海峡を隔ててアルバニアと対する。イタリア語名および英語名コルフ島、ラテン語名コルキュラ島。中心都市は東岸ケルキラ。古代ローマ時代より、東方への海上交易の拠点として栄えた。14世紀末から18世紀末までベネチア共和国に長く支配されたため、その影響が強く残っている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケルキラ島」の意味・わかりやすい解説

ケルキラ島
ケルキラとう
Nísos Kérkira

ギリシア西部,イオニア諸島北端の島。古代ギリシア語読みではケルキュラ Kerkyra,ラテン語ではコルキラ (コルキュラ) Corcyra,また中世にはコリュフェ Koryphēと呼ばれ,これがベネチア領下にイタリア語に転訛,コルフ Corfuとなったが,現在でもこの名で呼ばれることがある。アルバニアとの国境に面し,ギリシア本土のイピロス (古代名エピルス) 地方と狭いケルキラ海峡によって隔てられる。南北に長い石灰岩の島で,北部は山がちであるが,南部は比較的低平。中心都市ケルキラ。エウボイアのエレトリア人植民を排して,前 734年頃コリントの植民地が成立,一時コリントに服したがおおむね独立を保持。前 435年コリントとの争いでアテネに助けを求め,ペロポネソス戦争の要因となった。前3世紀イリュリア人に制圧されたが,ローマにより解放され,その基地,自治都市となった。以後,ゴートランゴバルド,サラセン,ノルマンなどに服した。 1401~1797年ベネチア領。 1815年以降イギリスの保護下に置かれたが,1864年イオニア諸島の他の島々とともにギリシア領となった。降水に恵まれた肥沃な島で,オリーブを中心にイチジクオレンジレモン,ブドウなどが栽培され,牧畜,漁業も盛ん。石鹸,織物などの工業が立地。ホメロスの『オデュッセイア』に記されたスケリア島はここであるという説もある。 2007年ケルキラ旧市街が世界遺産の文化遺産に登録された。面積 593km2。人口9万 7102 (1981) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケルキラ島」の意味・わかりやすい解説

ケルキラ島
けるきらとう
Kérkyra

ギリシア北西部、イオニア海にある島。ケルキラ海峡を隔ててアルバニアと対する。ラテン名コルキラCorcyra、英語名コルフCorfu。面積592平方キロメートル。周辺のパクソイPaxoí島などの小島をあわせてケルキラ県を構成する。ケルキラ県は面積639.7平方キロメートル、人口11万5200(2003推計)。島の北部はパンドクラトラ山(914メートル)の山系が連なり山がちであるが、南部は水源に恵まれた豊かな農業地帯で、オリーブ、柑橘(かんきつ)類、ブドウ、トウモロコシなどを生産、輸出する。ベネチア共和国の支配が長く、その影響が濃く残る。島の東岸に県都のケルキラ(コルフ)がある。港湾都市で、人口3万9487(2001)。

[真下とも子]

歴史

伝承によれば、紀元前733年コリント人の入植により開かれた。ペルシア戦争では孤立主義を貫き、局外にたったが、前5世紀後半には母市コリントとの対立からアテネと同盟し、内政面でも激しい内乱を経験した(前427)。ヘレニズム期にはマケドニアの諸将の攻撃の的となり、前3世紀末以降はローマの保護下に置かれ、その東方進出の拠点となった。10、11世紀にはノルマンの侵略を受け、その後、エペイロス公国(1214~59)、ベネチア(1389~1797)、フランス(1797~1815)などに相次いで占領され、1815年イギリスの保護領となったのち、64年ギリシア領となった。1923年夏にはイタリア人将軍暗殺事件を機に一時ムッソリーニに占拠されたが、列国大使会議の調停により解決をみた。

[中村 純]

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