宮崎(読み)みやざき

精選版 日本国語大辞典 「宮崎」の意味・読み・例文・類語

みやざき【宮崎】

[一] 宮崎県中部の地名。県庁所在地。大淀川の下流域にある。江戸時代には幕府直轄領のほか、延岡・佐土原・高鍋・飫肥(おび)・鹿児島各藩の領地に分かれていた。明治六年(一八七三)に県庁が置かれて以後、都市の形成が進み、商業都市として発展。南部は日南海岸国定公園の一部で、青島がある。大正一三年(一九二四)市制。

みやざき【宮崎】

(「みやさき」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「宮崎」の意味・読み・例文・類語

みやざき【宮崎】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「宮崎」姓の人物
宮崎市定みやざきいちさだ
宮崎寒雉みやざきかんち
宮崎湖処子みやざきこしょし
宮崎三昧みやざきさんまい
宮崎滔天みやざきとうてん
宮崎駿みやざきはやお
宮崎安貞みやざきやすさだ
宮崎友禅斎みやざきゆうぜんさい

みやざき【宮崎】[地名]

九州地方南東部の県。日向灘ひゅうがなだに面する。もとの日向の大部分にあたる。人口113.5万(2010)。
宮崎県南東部の市。県庁所在地。宮崎平野南部の大淀川河口域に位置し、商業が発達。青島がある。平成18年(2006)田野町・佐土原さどわら町・高岡町を、平成22年(2010)に清武町を編入。人口40.0万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「宮崎」の意味・わかりやすい解説

宮崎[県] (みやざき)

基本情報
面積=7735.99km2(全国14位) 
人口(2010)=113万5233人(全国36位) 
人口密度(2010)=146.7人/km2(全国40位) 
市町村(2011.10)=9市14町3村 
県庁所在地=宮崎市(人口=40万0583人) 
県花ハマユウ 
県木フェニックス,ヤマザクラ,オビスギ 
県鳥=コシジロヤマドリ

九州地方の南東部に位置する県。北は大分県,西は熊本県,南西は鹿児島県に接し,東は太平洋に臨む。

県域はかつての日向国の大部分にあたり,江戸時代末期には高鍋藩,延岡藩佐土原藩飫肥(おび)藩のほか,薩摩藩領(諸県(もろかた)郡),人吉藩領(米良山(めらやま)),天領,預地があった。1868年(明治1)旧天領は富高県となり,次いで日田県に併合され,71年豊後の延岡藩領と換地された。また人吉藩預りの椎葉山(しいばやま)諸村は1868年日田県,71年人吉藩の所管となった。同年の廃藩置県を経て,大淀川を境に日向北部は美々津(みみつ)県に,南部は大隅国6郡とともに都城(みやこのじよう)県に統合・整理された。72年大隅国の一部を都城県から鹿児島県に移管し,肥後国球磨郡米良山が日向国児湯(こゆ)郡に編入され美々津県管轄となった。73年都城・美々津両県が廃されて宮崎県が成立,その際大隅国分を鹿児島県に分離して日向一円を管轄地とした。その後76年宮崎県は鹿児島県に併合されたが,83年諸県郡南部を除く日向国をもって宮崎県が再置され,現在に至っている。

陣内遺跡(西臼杵群高千穂町)からは縄文時代早期~晩期の土器,石器が出土するが,とりわけ黒色磨研で扇状貝殻文や細線刻文列をもつ一群の土器は,御領式に先行する縄文後期後半の一型式と認められている。この地方には珍しい石棒や土偶も出土している。下弓田遺跡(串間市)は縄文後・晩期の集落址で,後期の市来式土器多数と,晩期の竪穴住居址などが出土している。松添(まつぞえ)貝塚(宮崎市)も後・晩期の貝塚で,晩期の網痕・布痕文土器と多量の石錘の出土が注目される。

 檍(あおき)遺跡(宮崎市)は弥生時代前期の埋葬遺跡。甕棺墓,土壙墓,石蓋土壙墓があり,土器はすべて宮崎県下の弥生土器としては最古の板付Ⅱ式である。

 宮崎県は古墳の多いことで知られるが,なかでも特に有名なのが西都原(さいとばる)古墳群(西都市)であろう。約330基の古墳からなり,前方後円墳32,方墳1,他は円墳である。うち30基が発掘調査された。ほとんどが5世紀の築造と思われるが,ただ一つ横穴式石室をもつ鬼窟屋(おにのいわや)古墳は6世紀のものであろう。児湯郡勢力の拠点として重要な古墳群である。新田原(にゆうたばる)古墳群(児湯郡新富町)は前方後円墳22,方墳2,および円墳186からなる大古墳群である。持田古墳群(児湯郡高鍋町)は9基の前方後円墳と多数の円墳からなる。前方後円墳には柄鏡形が多い。多数の鏡と玉類,馬具,武器などが出土している。浄土寺山古墳(延岡市)は柄鏡式で全長約40mの前方後円墳。3段築成で粘土槨をもち,内部に朱の痕跡があり,歯片のほか竹櫛48,鉄剣9,鉄刀6,それに鉄矛,盾,斧頭,短甲,冑などが出土した。5世紀代の築造であろう。常心塚古墳(西都市)は77基の古墳からなる三財古墳群に属し,土塁をめぐらす一辺約60mの大型方墳である。ほかにも生目(いきめ)古墳群(宮崎市),川南(かわみなみ)古墳群(児湯郡川南町),本庄古墳群東諸県郡国富町),南方(みなみかた)古墳群(延岡市)などがある。これら古墳群の中には,本庄古墳群のように地下式横穴墓を含む場合が少なくない。六野原(むつのばる)古墳群(東諸県郡国富町)でも,前方後円墳,円墳とともに家形の地下式横穴墓27を数える。割竹形木棺や和泉式並行の土師器高杯,武器,武具が出土し,5世紀代までさかのぼるものがある。ほかにも小木原(えびの市),旭台(西諸県郡高原町)などの地下式横穴墓群がある。下北方5号地下式横穴墓(宮崎市)は円墳封土下に玄室をもち,5世紀末~6世紀初頭の豊富な副葬品をもつ古墳の好例である。
日向国
執筆者:

宮崎県は天孫降臨,天照大神,神武天皇その他の事跡にまつわる日本開国の神話伝説にみちている。また県内には西都原(さいとばる)古墳群をはじめ3000余基の古墳があり,古代には南九州の一つの中心地であったことを示しているが,これは海岸にある広い台地や温暖な気候などの自然環境に負うところが大きい。県の北部から北西部にかけて連なる九州山地は標高1000m内外で,中生代の地層であるが,その中に古生代の石灰岩層を含む。南西部の鹿児島県との境には20余りの火山からなる霧島火山群があり,同山地の北および東側には加久藤(かくとう)盆地,小林盆地,都城盆地が位置する。県南部には新生代第三紀層に属する日南山地がある。海岸部の北部と南部は山地が海に没した岩浜海岸で,北部は日豊海岸国定公園,南部は日南海岸国定公園に指定され,青島や鵜戸神宮が有名である。中央部には約60kmの砂浜海岸があり,砂丘が発達し,それに続いて広い隆起扇状地(洪積台地)が展開する。河川の大部分は,東流して日向灘に注ぐ。北部の五ヶ瀬川,耳川は上流部で深い峡谷を形成し,下流部は狭い沖積地をなす。五ヶ瀬川上流の高千穂峡,蘇陽峡は景勝地として,耳川上流の椎葉村は隔絶された山村であったことで知られる。中部の小丸川,一ッ瀬川,大淀川は台地を開析して,下流に広い宮崎平野を形成する。大淀川の上流は南西部の都城・小林両盆地の水を排水する。加久藤盆地から流出する川内(せんだい)川は県内唯一の西流河川である。宮崎県の地形を特色づけるものに〈原(はる)〉と呼ばれる洪積台地があり,宮崎平野の2/3を占めている。〈原〉は自給自足を営む古代社会にあっては,温暖な気候とあいまって最も恵まれた生活環境であり,古代日向の中心をなした。

 気候は北部と南部でかなりの差を見せるが,全般的に南海型気候に属し,暖温帯性の特色を示す。とくに海岸部は温暖で,1月の平均気温は7℃に及び,青島や築(つき)島では亜熱帯性のビロウの純林が見られる。日本の中では多雨地帯に属し,山地では年降水量が3000mmに達するところもある。最多雨期は梅雨期と台風期で,しばしば風水害に見舞われる。

県内の産業別就業構造の割合(1995)は,第1次産業15.0%(全国平均6.1%),第2次産業26.7%(同31.4%),第3次産業58.3%(同62.5%)であり,全国平均に比べて第1次産業が高く,第2次産業が低く,第3次産業はあまり差がないことがわかる。これに対し,県内の産業別純生産の割合は,第1次産業が7.5%,第2次産業が33.4%,第3次産業が59.1%で,就業人口の割合に比べ第1次産業が生産額では最も低く,第3次産業が非常に高い。

 農業に適した気候条件のもとにあるが,他方では台風や集中豪雨などによる自然災害,大都市から遠隔地にあることや交通条件が悪いことなどが農業の発展を阻害してきた。従来,水稲作はあまり振るわず,畑作もサツマイモを主体としてきたが,1957-58年ころから台風災害を避けるため東北地方から導入した早期水稲の栽培普及によって県の農業構造は大きく転換した。さらに61年に農業基本法が制定されて作物の選択的拡大政策がとられるようになると,野菜は宮崎市付近の海岸地帯,酪農と肉牛は霧島山麓地帯や宮崎平野北部の台地,養鶏は宮崎平野北部の台地や日向市,稲作は宮崎平野をはじめとする海岸平野や盆地内でというように,地域的な特色をみせつつ発展した。なかでもキュウリ,トマト,ピーマンなど鮮度維持を必要とする施設園芸作物や畜産物の発展は,短時間でしかも大量に大都市へ出荷することを可能にしたカーフェリーの就航(1971)によるところが大きい。

 森林面積は県面積の77%(1995),そのうち国有林が31%を占める。森林の中心をなす県西部の九州山地は谷が深く,峰が険しいため木材を運び出す方法がなく,また林木も照葉樹が多いため主として木炭の生産に利用されてきた。しかし,家庭燃料として石油が普及するとともに木炭の需要が激減した。森林が脚光を浴びるのは道路が整備され,輸送機関として大型トラックが利用されるようになってからである。樹種もしだいに有用材としての針葉樹へ転換され,1995年現在,国有林の56%,民有林の58%に及んでいる。林産物の中には造船材として用いられた飫肥杉や碁盤用のカヤなどの特産があり,またシイタケの生産も多い。県内の乳牛飼育頭数(1995)は約2万7000頭(対全国1.4%),肉牛は約25万頭(同8.4%),豚は約76万頭(同7.4%),ブロイラーは約1840万羽(同15.3%)である。水産は全般的に海岸線が単調なため九州の中では最も漁港が少なく,不振である。北部の島浦,門川はイワシの漁港として,南部の油津(あぶらつ),目井津(めいつ)はカツオ,マグロの遠洋漁業基地である。

県内の商店の年間販売額(1995)は過去10年間に約6倍に伸びているが,全国的には下位である。商業の中心地は小藩分立という歴史的背景や地形の関係から北部の延岡市,中部の宮崎市,南西部の都城市に大別され,これら3市で県内年間商品販売額の75%を占める。工業製品の年間出荷額については過去10年間に約1.3倍で,全国でも下位である。各製品の割合は電気機械20%,化学製品14%,食料品13%,肥料12%などで,農畜産加工から脱しつつある。工業地域の中心は延岡市で,日向市とともに1964年新産業都市に指定された。延岡市の旭化成は薬品,食品,合繊,肥料など十数部門からなる九州最大の化学工業である。そのほか日南市に王子製紙,宮崎市の旧佐土原町に松下電器,本田技研などの工場がある。

幹線道路は大分県から九州山地を横断して宮崎県に入る。北から南に延岡市,宮崎市,都城市を結ぶ国道10号線が幹線で,これに直角に交差して東西を結ぶ国道218号,219号線などがある。西九州を南北に走る九州自動車道から分岐する宮崎自動車道がえびの市を基点に都城市を経て宮崎市に伸び,宮崎市と鹿児島・熊本・福岡市を高速バスが結んでいる。1913年に肥薩線(当時は鹿児島本線)の吉松から都城までの鉄道が開通し,しだいに北に伸びて都城~宮崎間が16年に開通,23年には日豊本線が開通した。79年には日豊本線全線の電化をみたが,その後乗客数が減少し,国鉄再建の波の中ですでに妻線は廃止となり,高千穂線,志布志線なども廃止され,第三セクターの鉄道やバス路線に変換した。海上交通は日向市細島港と川崎,神戸間に71-72年にカーフェリーが開通して以来,県内の産業が大都市の市場と直結されることになった。現在,宮崎市の海岸に掘込み式の港を建設し,川崎,大阪とも結ばれた。築港のために掘った土砂は大淀川をはさんで隣接する宮崎空港の滑走路延長工事や海岸埋立てに使われた。

 霧島屋久国立公園に含まれる霧島火山群や日南海岸国定公園など自然景観に恵まれた観光資源を有し,北から高千穂峡,椎葉,青島,都井岬などのほか,新しくシーガイアがあり,観光は県の主要な産業部門をなしている。

県域は地形,歴史的背景,経済活動の面から4地域に大別される。

(1)県北地域 延岡市を中心に日向市と東臼杵郡と西臼杵郡を含む。県面積の44%を占めるにもかかわらず,人口は県人口の23%で,人口密度は県平均の152人/km2に対して84人/km2と4地域中で最も低い。ほぼ全域を九州山地が占め,五ヶ瀬川,耳川などの深い谷によって交通路が阻害されている。

(2)県央地域 宮崎市を中心に,西都市と東諸県郡,児湯郡を含む。地理的にも,政治・経済的にも宮崎県の中心をなし,県面積の26%,県人口の45%,人口密度も261人/km2と4地域中で最も高い。中心都市である宮崎市は都市化に伴う人口集中が著しく,県人口の26%,県央地域の57%を占める。また佐土原町(現,宮崎市),新富町への工場進出に伴う農外人口の増加も著しいが,産業の中心は依然として農業にある。ただし,従来の農業の中心であった普通米作,サツマイモの栽培に代わって,早期水稲,キュウリ・トマトなどの施設園芸,ミカンを中心とする果樹栽培,養鶏,養豚を中心とする畜産が急速な発展をみせた。

(3)県南地域 日南・串間両市よりなり,県面積の10.7%を占め,人口は県の7.7%,人口密度も116人/km2と県平均より低い。早期水稲を主体にカンショ,果樹,野菜などがあり,とくにミカン,ポンカンを主とする果樹栽培は,古くから県内の中心であった。県南地域の特色をなすのは飫肥林業の名で知られる林業で,林野面積は地域面積の75%に当たり,工業の中心も紙・パルプ工業,木材工業が占めている。もう一つの特色は日南海岸国定公園に含まれる豊かな観光資源で,宿泊・運輸施設の整備が課題となっている。

(4)県南西地域 都城市を中心に小林市,えびの市と西諸県郡,北諸県郡を含む。人口の17%,県面積の22%を占め,密度は170人/km2で4地域中第2位を占める。宮崎市と鹿児島・熊本両県とを結ぶ南九州横断の交通上の要衝を占め,都城市は県南西地域のみならず,県南地域,鹿児島県大隅地域の一部を商圏としている。小林市は県南西地域の北部を商圏とし,えびの市は小林市の商圏に含まれる。産業の中心は農業であるが,大市場から遠隔の地であるうえに,台風の常襲地域であることやシラスその他の火山灰土壌におおわれているため生産性は低い。台地上で栽培されるサトイモ,ブドウ,ナシの特産があり,乳牛,和牛の畜産も盛んである。しょうちゅう,剣道用具の特産がある。
執筆者:


宮崎[市] (みやざき)

宮崎県南東部にある県庁所在都市。2006年1月旧宮崎市が佐土原(さどわら),高岡(たかおか),田野(たの)の3町を編入し,10年3月清武(きよたけ)町を編入して成立した。人口40万0583(2010)。

宮崎市中南部の旧町。旧宮崎郡所属。人口2万8696(2005)。宮崎平野南部に位置し,旧宮崎市に東・北・南を囲まれる。近世は飫肥(おび)藩に属し,中野に役所が置かれ,藩士の居宅があった。町の中心部を東流する清武川沿いは古くから水田が開かれ,黒ボク土壌のシラス台地は畑地となっている。専業農家の割合が高く,米作のほか,温暖な気候をいかして施設園芸が盛んで,野菜,ミカンなどが栽培され,畜産や林業も行われる。食品,電器などの工場の進出や宮崎医科大学(現,宮崎大学医学部)の開設に伴い,人口は増加傾向にある。幕末の儒者安井息軒の出身地で,旧宅が半九公園にあるほか,清武城跡,黒坂観音などもある。清武川の黒北発電所は県内最古の水力発電所として知られる。日豊本線,国道269号線が通り,清武ジャンクションで宮崎自動車道から東九州自動車道が分岐している。宮崎空港にも近い。

宮崎市北東端の旧町。旧宮崎郡所属。人口3万2981(2005)。宮崎平野中部,日向灘に注ぐ一ッ瀬川下流南岸に位置し,南は旧宮崎市に接する。江戸時代は佐土原藩島津氏2万7000石の城下町として発展した。海岸部が町の中心地で,JR日豊本線,国道10号線が南北に貫通する。中央部と西部は丘陵性の台地である。温暖な気候を利用した野菜の促成栽培が盛んで,米作,畜産,養鰻などが行われる。1962年低開発地域工業開発地区に指定後,電気・自動車部品などの工場が進出し,旧宮崎市のベッドタウンとして宅地開発も進んでいる。重要文化財の騎獅文珠菩薩像を有する大光寺や巨田(こた)神社,日講庵跡,フェニックス自然動物園がある。名産に朝鮮から伝わったという佐土原人形がある。

宮崎市西部の旧町。旧東諸県(ひがしもろかた)郡所属。人口1万2213(2005)。東は旧宮崎市に接し,中央部を大淀川が東流,川沿いに国道10号,268号線が通じる。古くは高岡地区は久津良,穆佐(むかさ)地区は六笠といわれ,島津・伊東両氏に交互に領有されてきたが,近世は島津氏の支配下にあり,高岡城が築かれ,去川(さるかわ)には関所が置かれた。現在は農業が主産業で,畜産をはじめミカン,米,タバコなどを産するが,特にミカン栽培は県内で最も早く始まり,生産高も多い。近年,企業誘致によりセメント製造や繊維縫製などの工場が進出し,商業も盛ん。天然記念物の高岡の月知梅(げつちばい),去川の大イチョウがある。

宮崎市南西部の旧町。旧宮崎郡所属。人口1万1580(2005)。清武川上流域の小盆地に位置する。江戸時代は飫肥(おび)藩清武郷に属し,南部を本田野,北部を別府田野と称した。米作主体の農業が主産業であるが,近年はサトイモ,ダイコンなどの野菜をはじめ,タバコや茶の栽培が盛んで,漬物加工や製茶などの工場も建設された。旧宮崎市の近郊にあってJR日豊本線,国道269号線が通じ,宮崎自動車道のインターチェンジも設置されたため都市化が進んでいる。南の鰐塚山地一帯は県立自然公園に指定されている。
執筆者:

宮崎市東部の旧市で宮崎平野の南部海岸地帯を占める県庁所在都市。1924年市制。人口31万0123(2005)。市域の北部と西部には50m内外の洪積世の礫層をのせる新第三紀の宮崎層群の台地が展開し,南部は500m内外の新第三紀層の鵜戸(うど)山地が占める。市域の中央部を大淀川が東流して日向灘に注ぎ,広い沖積地を形成,海岸には1~3列の砂丘が発達する。市域の47%が林野で,農耕地は13%であり,水田が78%を占める。水稲作は早期水稲が大部分で,畑作ではキュウリは県内第1位,カボチャ,トマト,ピーマンは第2位である。就業人口の割合(1995)をみると,商業・サービス業27%,建設・製造業22%,農林業6%などで,生産所得の割合も商業・サービス業が56%を占め,商業都市であることがわかる。また,宮崎大学,航空大学校,県立看護大学など7大学があり,教育文化施設も整備されている。JR日豊本線が通じ,日南線を分岐するほか,国道10号線,269号線,宮崎自動車道,東九州自動車道が通じる。宮崎空港は大型ジェット機の発着も可能で,東京,名古屋,大阪,広島のほか九州各地と結ばれている。また宮崎新港の建設もほぼ終わって,川崎,大阪,神戸などと連絡する(2008年現在,川崎,神戸は休止)。観光地として〈こどものくに〉,宮崎神宮,平和台公園,シーガイアなどがある。青島を含む海岸部は日南海岸国定公園に指定。
執筆者:

地名の初見は768年(神護景雲2)。11世紀半ばに郡内を開いて宇佐八幡宮に寄進され,宮崎荘となる。鎌倉初期には田地300町。鎌倉時代に入って地頭に中原親能が補されたが,実際は豊後大友氏の一族藤北氏が知行した。南北朝時代に宮崎城が築かれ,数度の合戦ののち臼杵郡県(あがた)の伊東氏の所領となったが,本家に敵対する薩摩島津氏に通じたので,1446年(文安3)伊東祐尭(すけたか)が攻略し,伊東氏の支城の一つとなった。1536年(天文5)には義祐が在城したこともある。77年(天正5)伊東氏は豊後国へ逃亡したので,宮崎へは翌78年豊州島津家忠朝が入城し,のち日置忠充を城番とした。80年からは上井(うわい)覚兼が城主であった。豊臣秀吉の九州統一後,宮崎4万石は延岡藩領となり高橋氏が知行した。1600年(慶長5)城番権藤種盛は清武城稲津掃部助に敗れたが,稲津氏も島津氏に討たれ,延岡藩に復した。13年有馬氏領となり,15年(元和1)廃城となった。

 その後の支配関係は複雑で,大淀川左岸地域は延岡藩の飛領地であり,河口近くには天領,北部地区には佐土原藩領があった。右岸地域は河口地域が飫肥藩領,その西側には延岡,高鍋,薩摩の各藩領があった。1873年(明治6)に美々津・都城両県が廃止されて宮崎県が設置されたとき,県庁を城下町に置かずに,現在の県庁に近い戸数10戸足らずの農業集落に置き,それを核にして宮崎市が発展した。
執筆者:

宮崎(宮城) (みやざき)

宮崎(福井) (みやざき)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮崎」の意味・わかりやすい解説

宮崎
みやざき

福井県中北部,越前町南部の旧村域。丹生山地の中央部にある。 1889年村制施行。 2005年朝日町,越前町,織田町と合体して越前町となった。地名は隣接する織田の剱明神の前を意味する。中心地区の江波は天王川流域の河岸段丘上にある。古代には陶土に恵まれて須恵器を産し,鎌倉・室町期には越前焼が確立し瀬戸焼,常滑焼,信楽焼,備前焼,丹波焼とともに日本六古窯の一つと称された。長らくすたれていたが,再興がはかられ,1970年代から小曽原に越前陶芸村として県の陶芸館,陶芸公園,茶苑などが置かれている。竹林が広く,タケノコを多産。国の重要文化財の相木家住宅,西部にシャクナゲ自然園がある。

宮崎
みやざき

宮城県北西部,鳴瀬川の支流田川の流域地区。旧町名。西は山形県に接する。 1954年宮崎,加美石 (かみいし) の2村が合体して町制。 2003年小野田町,中新田町と合併し加美町となった。地名は大崎氏の重臣笠原氏勧請の熊野神社の鎮座地という意味の宮前 (みやざき) に由来。米作が主産業。山地が広く,林業,酪農が行なわれ,競走馬も生産される。最西端の翁峠 (1075m) 近く,小野田との境にある魚取沼 (ゆとりぬま) のテツギョ (鉄魚) 生息地は天然記念物。

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事典・日本の観光資源 「宮崎」の解説

宮崎

(福井県丹生郡越前町)
美しい日本のむら景観100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宮崎の言及

【日向国】より

…日州。現在の宮崎県および鹿児島県の一部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。…

※「宮崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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