サン・ステファノ条約(読み)さんすてふぁのじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・ステファノ条約」の意味・わかりやすい解説

サン・ステファノ条約
さんすてふぁのじょうやく

ロシア・トルコ戦争(1877~78)でトルコが敗れ、1878年3月、サン・ステファノSan Stefano(イスタンブール近郊の寒村。現在名はイェスィルキョイ)で調印された講和条約。この条約によってトルコは、自国の宗主権下には置くが黒海からエーゲ海に及ぶブルガリア公国の新設、およびセルビアモンテネグロルーマニアの自国からの完全独立、また黒海沿岸トルコ領の一部のロシアへの割譲、アルメニア地方におけるロシアの保護権などを承認させられた。この条約はロシアの主張を露骨に反映していたため、これを脅威とみなしたイギリスオーストリアが強く反対した。しかしイギリスはその後ロシアとの密議キプロス(トルコ領)の領有を認めさせた。イギリス、ロシア間の了解成立でドイツ・オーストリア・ロシア三帝同盟(1873)に亀裂(きれつ)が生じるのを恐れたドイツのビスマルクは、この問題の調停を呼びかけ、同年6月、ベルリンにロシア、トルコ、イギリス、オーストリア、フランス、イタリアの各首相を招いていわゆる「ベルリン会議」を催した。この会議ではサン・ステファノ条約が大幅に修正され、ロシアの主張が縮小される一方、イギリス、オーストリアの要求が認められた。またロシア・トルコ戦争の原因であるバルカン民族の要求は無視されたため、後の紛争の原因をつくりだす結果となった。

[藤村瞬一]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「サン・ステファノ条約」の解説

サン・ステファノ条約(サン・ステファノじょうやく)
San Stefano

1878年,イスタンブル近郊のサン・ステファノで結ばれたオスマン帝国とロシアとの講和条約。75年,ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスラヴ系民族が,長年のオスマン帝国支配を脱しようとして反乱。これを同じくオスマン帝国支配下のセルビアモンテネグロが支援し,さらにパン・スラヴ主義運動の盟主をもって任ずる帝政ロシアは,バルカン進出の好機とばかり,この蜂起を支援してロシア‐トルコ戦争(1877~78年)となった。戦争はロシア側の勝利に終わり,ロシアはバルカンに自己の勢力圏を得たかにみえた。しかし,イギリスおよびオーストリア‐ハンガリー帝国はこれに反対し,ビスマルクのドイツが仲介して78年ベルリン会議が開かれた。その結果,ロシアの南下政策は阻まれ,ロシア‐ドイツ,ロシア‐オーストリアの対立の原因となった。

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百科事典マイペディア 「サン・ステファノ条約」の意味・わかりやすい解説

サン・ステファノ条約【サンステファノじょうやく】

1878年結ばれた露土戦争の平和条約。トルコ領内のスラブ系諸民族の独立承認,ロシアの軍事保護下におけるブルガリア公国の創設,ボスポラスとダーダネルス両海峡の常時開放など,ロシア勢力圏の拡大が定められた。英・オーストリアはこれに反対し,同年ベルリン会議でドイツの仲介により大幅な修正が加えられた。このためロシアの南下政策は阻止され,ロシアと独・オーストリア関係は険悪となった。サン・ステファノSan Stefanoはイスタンブール西郊の小村。

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