シャープール1世

改訂新版 世界大百科事典 「シャープール1世」の意味・わかりやすい解説

シャープール[1世]
Shāhpuhr Ⅰ
生没年:?-272

ササン朝ペルシア第2代の王。在位240-272年。アルダシール1世の子。父王が〈イランの諸王の王〉であったのに対し,〈イランと非イランの諸王の王〉と称する。その功業を記したナクシ・ルスタムの碑文によれば,彼の帝国は,西はメソポタミア北部やアルメニアから,東はクシャーナ族の地を含め,タシケントカシュガルの境まで達していた。3度にわたる対ローマ戦争に勝利をおさめ,とりわけ第3回遠征のエデッサ付近の戦い(260)でローマ皇帝ウァレリアヌス捕虜にしたできごとは,ナクシ・ルスタムやビシャープールに記念として磨崖浮彫に刻まれた。彼はローマ人捕虜を帝国内各地に植民して都市を建設した。スーサ近くのグンデシャープールがもっとも有名で,同地方ではまたローマ人を使役してカールーン川の灌漑用ダムが造られた。彼の治世は国際的な文化受容の時代であり,その寛大な宗教政策のもとに新興マニ教は急速に発展することができた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シャープール1世」の解説

シャープール1世(シャープールいっせい)

シャープフル1世

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世界大百科事典(旧版)内のシャープール1世の言及

【ウァレリアヌス】より

…帝国は外敵の攻撃と内部の反乱により混乱の極に達し,崩壊寸前であった。とりわけササン朝ペルシアのシャープール1世は攻撃的で,シリアを攻め,ドゥラの要塞を陥れ,アンティオキアをも略奪した。ウァレリアヌスはこのペルシアの侵入と戦うため東征し,エデッサでペルシア人に捕らえられ,虜囚の汚辱のうちに生涯を終えた。…

【ササン朝】より

…3世紀初めころ,ササンの子パーパクPāpakがイスタフルの王となり,パーパクの子アルダシール1世のときに,イラン南部からバビロニアに進出して224年にアルサケス朝のアルタバヌス4世を敗死させ,首都クテシフォンにおいて新しい帝国支配を開始した。第2代のシャープール1世は対外的発展につとめ,西方では3度ローマ軍を破り,東方ではクシャーナ朝を併合し,シル・ダリヤ地方まで勢力を拡大した。ササン朝はもともとイランの伝統的な聖火崇拝に熱心であったが,シャープール1世は寛容な宗教政策をとり,そのため新興のマニ教は急速に教勢を広げることができた。…

【ササン朝美術】より

…前方がドームやイーワーンのある公的区域で建物も高く,後方は中庭の周囲に小室を配した私的区域となっている。シャープール1世(在位240‐272)のビシャープールBishāpūrやクテシフォンの宮殿,カスル・イ・シリーンKasr‐i Shirīnのチャハル・カプ宮殿などはいずれも左右対称的なプランを示しており,ササン朝宮殿建築の一つの特色を示している。 神殿の遺構としてはゾロアスター教の〈拝火神殿〉が50ほど知られ,その大部分はファールス地方に残されている。…

【マニ教】より

…前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマBēma大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝のシャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。…

【メソポタミア】より

… 後3世紀の前半,ササン朝ペルシアがパルティアに代わってイラン高原を支配し,メソポタミアで再びローマと衝突した。たとえばシャープール1世はメソポタミアを占領,260年にはローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。しかし,この間シリアの都市パルミュラが勢いを得て,シャープール1世を破る。…

※「シャープール1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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