日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュトラウス(子)」の意味・わかりやすい解説
シュトラウス(子)
しゅとらうす
Johann Strauß (Sohn)
(1825―1899)
「ワルツ王」の名で親しまれるオーストリアの作曲家、指揮者、バイオリン奏者。「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスの長男として10月25日ウィーンに生まれる。6歳で36小節のワルツを作曲するほどの楽才を示したが、音楽家の道を歩むことに父は反対であり、銀行家としての勉強を強いられた。しかし、母親の理解によりバイオリンも学び、1842年に父が家庭を捨てて若い女のもとに走ったのを契機に、正式な音楽の勉強を開始した。シュトラウスはアントン・コールマンにバイオリンを、聖シュテファン大聖堂合唱長であったヨーゼフ・ドレクスラーに音楽理論を学んだ。
1844年9月、18歳のシュトラウスは公開演奏の公認許可証を手に入れ、24人からなる楽団を組織し、ウィーン西部ヒーツィングのカジノ・ドームマイヤーでデビューした。大成功の結果、たちまち父の楽団のライバル的存在に成長するが、49年に父が死ぬと両楽団を統合指揮し、文字どおりウィーンのワルツ界を支配するようになった。48年の三月革命の際に共和派のために行進曲を作曲したため宮廷入りは遅れたが、新皇帝フランツ・ヨーゼフの即位の結果として63年には宮廷舞踏会音楽監督の地位を得、ウィーンの舞踏会シーズンの中心的存在となった。父と同様、演奏旅行も盛んに行い、56年から86年にかけてロシアを含むほとんどのヨーロッパ諸国で演奏し、「ワルツ王」としての地位を不動のものとした。72年にはアメリカに渡り、プロイセン・フランス戦争終結を祝うボストンでの演奏会では、ワルツ『美しく青きドナウ』と『酒、女、歌』を、1万人からなるオーケストラと2万人の合唱を用いて演奏したが、超大編成のため100人の副指揮者を必要とした、と伝えられている。
1858年にオッフェンバックのオペラ・ブッファがウィーンに紹介され、さらにそれに刺激されたスッペのウィーン風オペレッタが大成功を博したため、アン・デア・ウィーン劇場は彼にもオペレッタの作曲を依頼し、『こうもり』(1874初演)、『ジプシー男爵』(1885初演)に代表される16曲のオペレッタが生まれた。このウィンナ・オペレッタの伝統は、さらに、ホイベルガー、ツェラーらを経てレハールへと受け継がれた。
シュトラウスは生涯に3回結婚した。最初の妻はイェッティと愛称された歌手のヘンリエッテ・トレフツ、その死後再婚したのが若い女優アンゲリカ・ディットリヒであった。この二度目の結婚は性格の相違などから不幸なものとなり、9年後に離婚し、アデーレ・シュトラウス(銀行家アントン・シュトラウスの若い未亡人)と結婚し、幸福な晩年を過ごすことができた。しかし、アンゲリカと離婚するためシュトラウスはプロテスタントになり、オーストリア国籍を捨て、ザクセン・コーブルク・ゴータ伯国の国籍をとることを余儀なくされ、終生この国籍にとどまったまま、1899年6月3日ウィーンで世を去った。「ワルツ王」シュトラウスの音楽は19世紀後半のオーストリア、ハプスブルク王朝の首都ウィーンの栄華を象徴している。『美しく青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』『皇帝円舞曲』に代表されるワルツが約170曲、『トリッチ・トラッチ・ポルカ』などのポルカが約120曲、さらにマーチ、ガロップ、カドリーユも多い。序奏とコーダに挟まれた5曲のワルツという定型は、父やランナーから踏襲したが、各舞曲の規模はより大きく、有機性、構想の豊かさ、旋律の美しさなど、あらゆる点で先駆者をしのいでいる。
[樋口隆一]
『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』