シュワーベン(英語表記)Schwaben

改訂新版 世界大百科事典 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン
Schwaben

今日の行政区域としてのシュワーベンはドイツ,バイエルン州南西部の県。面積9994km2,人口179万(2006)。県都はアウクスブルク。歴史的には,ゲルマンの一部族,彼らの定住した地域,あるいは中世にこの地域に建てられた部族公国のことである。ゲルマンの一部族としてのシュワーベンは3世紀にライン川とイラー川の中間,ボーデン湖までのローマ領内に侵入して定着し,5世紀に定住地域をエルザスアルザス),スイス,フォアアールベルク,東はレヒ川まで拡大したアレマン族Alemannen(alle Männer)のことで,これは,ザクセン族フランク族チューリンゲン族,バイエルン族,フリーゼン族とともにドイツ民族を構成する6部族の一つである。アレマン族と彼らが定住した地域であるアレマンニアAlemanniaは10世紀ころからシュワーベンと呼ばれるようになるが,この名称は1世紀ころゲルマニアに住んでいたスエビ族Suebiに由来している。シュワーベン(アレマン)族の社会は首長(王や小王)制の多数の支族から成っていたが,5世紀に統一へ向かった。しかし,496年フランク王国クロービスに敗れ,536年には全領域が東ゴートの保護下からフランク王の支配下に入り,以後フランク王の任命する大公に統治されるアレマン公国が建てられた。7世紀には部族法が成立し,キリスト教化が進み,8世紀以降カロリング朝時代には大公制に代わってグラーフシャフト制が導入された。この時代には集村化や三圃農法の採用など農業が発達し,古典荘園やレーエン制が形成された。カロリング朝末期に土着貴族が台頭し,10世紀初めブルヒアルトBurchardがシュワーベン大公を称した。1079年ザリエル朝のハインリヒ4世はシュタウフェン朝の祖フリードリヒをシュワーベン公に任命し,以後1268年まで同家がシュワーベン公家となった。盛期中世にはシュワーベンは下級貴族(騎士)の活躍する舞台となって多数の城(ブルク)が築かれ,また,教会改革運動の中心となり,ベネディクト派とシトー派の修道院が成立した。1268年にシュタウフェン家が断絶して公国は消滅し,大小多数の聖俗領主の並立する分裂状態が18世紀末まで続いた。諸侯,高級貴族,帝国騎士,司教,修道院,帝国都市,ドイツ騎士団などの所領はおよそ350を数えた。75~76年ころには後にシュワーベンシュピーゲルと呼ばれる法書が成立し,1376年にはウルムを中心に14の帝国都市がシュワーベン都市同盟を結び,多くの都市が加盟して大きな勢力となったが,88年にビュルテンベルク伯に敗れたのち解体した。14世紀には南部のスイス盟約団体が独立する。小規模な所領の錯綜するシュワーベンはドイツ農民戦争の舞台となり,農民の〈12ヵ条〉の要求書はここで生まれた。1488年に多くの帝国等族によって結成された〈シュワーベン同盟Schwäbischer Bund〉はトルーフゼスの指揮下に農民軍鎮圧の主力となったが,宗教改革の結果1533年に解散した。15,16世紀には麻織業が広がり,多数の織物の町が生まれて商工業が栄え,これは宗教改革を受け入れる地盤となった。17,18世紀に三十年戦争をはじめ,何度も戦禍を被ったのち,19世紀にはビュルテンベルク王国,バーデン大公国,バイエルン王国の南ドイツ3国に統合され,プロイセンオーストリアに対する第3の勢力であった。

 このような歴史の刻まれたシュワーベンは南部をドナウ川が西から東へ貫流する。ドナウ川の南,オーバー・シュワーベンとバイエルン・シュワーベンは平地となだらかな丘陵が交互する標高500~600mくらいの高地で,草地・牧地が多く酪農の盛んな地域である。ドナウ川の北,ビュルテンベルク・シュワーベンはライン川の支流ネッカー川が蛇行しながら北流し,土地は肥沃で集約的農業が行われ,大小の町や村で各種工業が行われている。西のシュワルツワルト地方と中央のシュトゥットガルト周辺の森を除けば草地と耕地が多く,ネッカー川とその支流の流域はブドウ酒の産地として知られている。今日のシュワーベン人は以上3地域のシュワーベンなまりを話す住民のことである。定住形態は古い地域では集村,開墾地域では散居(ワイラー)や孤立農家,家屋には木骨建築Fachwerkが多い。マルクグレニンゲンの羊飼いの競走Schäferlaufや各地の謝肉祭など古来の祭りの習慣も伝えられている。シュワーベンの郷土衣装は黒い半長の革ズボン,上部を折り返した長靴,青い麻の上っ張り,浅めの堅いフェルト帽といういでたちである。農地が零細で経済的に恵まれなかったため外部への移住者が多く,バルカン地方へ移住したシュワーベン人は独特の生活と文化を守ったのでバナート(旧ハンガリー領)・シュワーベン人,ドナウ・シュワーベン人などと呼ばれている。文学ではハルトマン(アウエの),シラー,ヘルダーリンウーラント,メーリケ,ヘッセ,哲学ではアルベルトゥス・マグヌスヘーゲルシェリング,天文学ではケプラー,経済学ではリストなどがシュワーベンの出身である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン
しゅわーべん
Schwaben

南西ドイツの地方名。英語ではスワビアSwabia。歴史上、シュワーベンは中世ドイツのシュワーベン公国をさす。地名は、紀元1世紀ごろこの地に居住したゲルマン系のスエビSuevi人にちなむが、この地名が一般に用いられるのは11世紀以降のことである。それまでは、3世紀から5世紀にかけてこの地に移住し定着したゲルマン系のアレマンネン(アラマン)人にちなんで、アレマンニアAlemanniaとよばれた。アレマンニアの範囲は、東はレッヒ川、西はエルザス(アルザス)、北はネッカー川中流、南はアルプスを境界とし、今日のバーデン・ウュルテンベルク、バイエルン南西部、スイス北東部を含む地域である。

 上述のアレマンネン人は、フランク王国のクロービスによって496年征服されたが、その後自立的傾向を回復し、再度フランクの支配下に入ったのは746年のことである。カロリング朝の末期になると土着貴族が台頭し、その一人のブルヒャルト1世が917年シュワーベン公を称した。その死後、926年ザクセン朝の国王ハインリヒ1世は、コンラート家(フランケン地方出身)のヘルマンに公位を与え、以後、非土着貴族が公に任ぜられ、部族公国の解体が進められた。1079年ザリエル朝の国王ハインリヒ4世は、女婿のシュタウフェン家のフリードリヒに公位を与え、これより同家が公位を相続し、その後のシュタウフェン王朝全盛の社会的基盤を形成した。1268年同家の断絶とともに、群小貴族乱立の時代に入るが、ウュルテンベルク伯、バーデン辺境伯、アウクスブルク、コンスタンツ各司教が有力な存在であり、また多数の帝国騎士、帝国都市が生まれた。彼らはシュワーベン都市同盟(1376)、シュワーベン同盟(1488)などを結成し、ドイツ政治のイニシアティブ(主導権)を握った。1524年夏には、この地方を主舞台としてドイツ農民戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦争は翌年6月まで続いた。19世紀の哲学者ヘーゲル、シェリング、作家のシラー、詩人のヘルダーリン、ウーラント、メーリケなどがこの地方の出身であるが、それは、シュワーベンの自由の伝統、牧歌的自然に負うものであろう。現在も家畜の飼育や酪農業が盛んである。

[瀬原義生]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン
Schwaben; Swabia

ドイツ南部の歴史地名。現在のバーデンウュルテンベルク州の南部,バイエルン州の南西部およびスイス東部とアルザスを含んだ地域。地名は1世紀頃居住したスエビ族に基づくが,この地名が一般化したのは 11世紀以降で,それ以前は西ゲルマンのアラマンニ族にちなんでアラマニエンまたはアレマニエンと呼ばれた。アラマンニ族は,フランク王国のクロービス1世によって 496年に征服され,フランク王に服属する部族公によって統治されたが,メロビング朝の衰微とともに自立傾向を示し,次いでカロリング朝カルル・マルテルが 730年再び征服してフランク王の直接支配するところとなった。同朝崩壊とともに土地貴族が台頭し,ブルヒアルトはシュワーベン公を称した (917) 。その後の支配者の地位は転々としたが,ザリエル朝のドイツ王ハインリヒ4世が 11世紀末にホーエンシュタウフェン家のフリードリヒにシュワーベン公領を与えたことが,その後のホーエンシュタウフェン朝台頭の基礎となった。 1268年ホーエンシュタウフェン朝は没落し,この地にはウュルテンベルク伯,バーデン辺境伯,アウクスブルク,コンスタンツ司教などの小領主が並立し,1290年代にはハプスブルク家のヨハン・パリチダによる公領再興の企図もあったが消滅し,14世紀には南部のスイス自由連邦が独立してシュワーベンの地域は縮小した。なお,ホーエンシュタウフェン家と対抗したウェルフェン家,のちにプロシア王家となったホーエンツォレルン家など,いずれもシュワーベンの貴族であった。

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百科事典マイペディア 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン

ドイツ,バイエルン州南西部,ほぼレヒ川以西の地区。西部からバーデン・ビュルテンベルク州にシュウェービッシェ・アルプスの山地が延びる。主都アウクスブルクを中心に金属,繊維工業が行われる。名は紀元1世紀ころこの地に住んだゲルマンの一部族スエビ族に由来。初めアレマニアと呼ばれ,シュワーベン公国の名は10―11世紀以後用いられるようになった。当時は,スイスのドイツ語圏,バーデンおよびビュルテンベルク等も含んだ。1079年シュタウフェン家領となったが,1268年その断絶により,公国は解体。のちシュワーベン都市同盟が成立。1495年ビュルテンベルク公国成立後,主としてその領土がシュワーベンと呼ばれるようになり,変遷を経て現在に至る。

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