シューマン(Robert (Alexander) Schumann、作曲家)(読み)しゅーまん(英語表記)Robert (Alexander) Schumann

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

シューマン(Robert (Alexander) Schumann、作曲家)
しゅーまん
Robert (Alexander) Schumann
(1810―1856)

ドイツ・ロマン派の代表的な作曲家であり、明晰(めいせき)な頭脳と文学的才能をもって音楽評論の分野でも健筆を振るった。その妻クララとの情熱的な恋愛は音楽史上とくに有名で、その愛からいくつもの作品が生まれている。しかし若すぎる晩年には聴覚異常や幻覚症状に悩まされ、ライン川に投身自殺未遂をするまでになった。ボン郊外の精神科病院で2年ほどの療養生活ののち世を去っている。

 シューマンは5人兄弟の末弟として1810年6月8日にツウィッカウに生まれた。父フリードリヒアウグストライプツィヒ大学文学部に籍を置いて小説を書くほどの文学的素質に恵まれ、自らは書店を経営して生計をたてていた。母ヨハンナ・クリスティアーネは、フリードリヒが書店に勤めていたツァイスの町の外科医の娘で、音楽を愛する優しい女性であった。この両親のもとにツァイスで4人の子供が生まれ、書店・出版業を始めるために引っ越したツウィッカウで末子ローベルトが生まれている。ローベルトの文学的素養は書店・出版業を営む家庭環境から十分にうかがえるが、母方の曽祖母(そうそぼ)がドイツの偉大な詩人レッシング家の出身であることも見逃されてはならない。

 7歳ごろからほとんど自己流でピアノを弾いたり、小さな舞曲風の曲を書いて音楽的素養の豊かさを示していた。12歳のときには自己流ながらも『詩篇(しへん)第150番』を作曲し、自ら組織したアマチュア合唱団オーケストラを使って初演さえしている。しかし、16歳のとき父が没し、ローベルトの将来を心配した母や後見人たちの説得で法律を学ぶためにまずギムナジウムに通い始める。ここを1828年3月に優秀な成績で卒業し、ライプツィヒ大学の法科へと進学するが、大学生活後半はハイデルベルク大学の法科に転学している。しかし、この間のシューマンはますます音楽に深入りし、友人や知人宅で室内楽を楽しんだり、ライプツィヒのゲバントハウス演奏会に足しげく通い、ベートーベンシューベルトの作品に親しんだ。またハイデルベルクでは、法科の教授が音楽論の著作までもつ人で、音楽実践面でも学生とともにパレストリーナの古典対位法を研究するサークルの指導者であったこともシューマンに大きな影響を与えることになった。この教授A・J・ティボーの勧めでシューマンは、当時ライプツィヒで名をなしていた名ピアノ教師F・ウィークのもとに弟子入りすることになった。

 1830年の秋からウィーク家の内弟子として名ピアニストを夢みながら修業に励むが、このころウィークは天才的女流ピアニストの評判を得ていた愛娘クララを伴って演奏旅行に出かけることが多く、修業もさることながら、師弟関係も長くは続かなかった。このころまでにシューマンは、未完に終わった2曲のピアノ協奏曲スケッチやピアノ独奏小品のスケッチを残しており、創作面にも意欲をみせ始めていた。31年には前年に完成させた『アベッグ変奏曲』を作品1として出版して、作曲家としての未来の可能性を確信した。また同年暮れには、ライプツィヒの『一般音楽新聞』にショパンに関する評論を投稿して、鋭い感性と的確な洞察力を示している。

 過酷なピアノの練習で指を痛めてしまった彼はピアニストの道をあきらめ、創作へと専念してゆくことになる。1832年から33年の間にかなりの数のピアノ作品を書き、32年には『パピヨン』『パガニーニ練習曲』『インテルメッツォ』を次々に出版している。

 1834年はシューマンにとって一大飛躍の年となる。44年までの10年間、自ら単独主筆となる『音楽新時報』を創刊して、当時の音楽ジャーナリズムに新風を注ぎ込むかたわら、創作面での『交響的練習曲』と『謝肉祭』の完成がピアノ音楽史上に一線を画する新様式の作品として、新たな時代の出発点となるのである。こうして創作と評論活動が軌道に乗り始める1835年ころから、いまや天才少女ピアニストとしての名声をすっかり確立した16歳になる師の娘クララに恋愛感情を抱くようになるが、ウィークは2人の恋愛を厳しく禁じた。こうした試練のなかでシューマンは36年から38年の間に、最高傑作と評されるピアノ曲のほとんどを生み出している。『幻想小曲集』『子供の情景』『クライスレリアーナ』などがこの期の作品である。

 どうしても結婚を許してくれないウィークに対して、若い2人は父親の許諾なしで結婚できるように裁判にまで持ち込み、1840年9月12日にようやく結婚にこぎつけている。こうした人生上の大きな転換と時を同じくするように、シューマンの創作はピアノ音楽から「歌曲の年」とよばれる声楽作品へと集中してゆく。『リーダークライス』『詩人の恋』『女の愛と生涯』をはじめ『ミルテの花』などの歌曲集の傑作がこの年に完成されている。こうした特定ジャンルへの集中は以後も続き、41年の「交響曲の年」、42年の「第一次室内楽の年」、43年の「オラトリオの年」とよばれる集中的、体系的な創作姿勢をみせている。

 シューマンの活躍を場所的にみれば、本拠地は1844年までのライプツィヒになるが、晩年は44年暮れから50年9月までのドレスデン時代、そして50年9月からはデュッセルドルフ時代となるが、前述したとおり、最晩年の2年間はボン郊外エンデニヒの精神科病院で1人で生活し、56年7月29日、46歳の生涯を閉じている。晩年の巨匠期には第二次(1847~49)、第三次(1851~53)の「室内楽の年」に3曲のピアノ三重奏曲や、バイオリン・ソナタ第3番などの傑作を生んでいる。また評論では、53年に『新しい道』と題する一文で20歳の青年ブラームスの未来をみごとに予言して、彼を世に送り出していた。

[平野 昭]

『吉田秀和訳『シューマン自選評論――音楽と音楽家』(岩波文庫)』『前田昭雄著『シューマニアーナ』(1983・春秋社)』『音楽之友社編『作曲家別名曲解説ライブラリー 23 シューマン』(1995・音楽之友社)』『吉田秀和著『吉田秀和作曲家論集4 シューマン』(2002・音楽之友社)』

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