シーボルト(読み)Siebold,Philipp Franz von

精選版 日本国語大辞典 「シーボルト」の意味・読み・例文・類語

シーボルト

[一] (Karl Theodor Ernst von Siebold カール=テオドール=エルンスト=フォン━) ドイツの生理学者、動物学者。クラゲの発生、内臓寄生虫、昆虫類などの研究によって単性生殖の実在を確証。主著「無脊椎動物の比較解剖学」「蝶類および蜂類の単性生殖」。(一八〇四‐八五
[二] (Philipp Franz von Siebold フィリップ=フランツ=フォン━) ドイツの医学者、博物学者。オランダ商館の医官として一八二三年(文政六)来日。五九年(安政六)にはオランダ商事会社の顧問として再度来日。長崎郊外に鳴滝塾を開いて診療とオランダ医学の教授にあたり、伊東玄朴、高良斎、高野長英らを育てた。また、日本の動植物を研究。著書「日本」「日本動物志」「日本植物志」。(一七九六‐一八六六

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デジタル大辞泉 「シーボルト」の意味・読み・例文・類語

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)

[1796~1866]ドイツの医者・博物学者。1823年、オランダ商館の医師として来日。長崎に鳴滝塾を開設、診療と教育とに当たり、日本の西洋医学発展に影響を与えた。シーボルト事件により1829年に追放。1859年、再び来日、幕府の外事顧問を勤めた。著「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」など。

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朝日日本歴史人物事典 「シーボルト」の解説

シーボルト

没年:1866.10.18(1866.10.18)
生年:1796.2.17
江戸後期に来日したドイツ人の医師,生物学者。バイエルンビュルツブルクの医師の家に生まれる。ビュルツブルク大学で医学,植物学,動物学,地理学などを学び,1820年学位を得る。1822年,オランダ領東インド会社付の医官となり,1823年にジャワに赴任,まもなく日本に任官することになり,文政6(1823)年8月に長崎出島に入った。はじめ商館の内部で,やがては市内の吉雄幸載の私塾などでも,診療と講義を行っていたが,翌年長崎奉行から許されて,郊外の鳴滝に学舎を造った。学生の宿舎や診療室,さらには薬草園まで備えたこの鳴滝塾に,週1回出張したシーボルトは,実地の診療や医学上の臨床講義のみならず,様々な分野の学問の講義を行い,小関三英,高野長英,伊東玄朴,美馬順三,二宮敬作らの蘭学の逸材を育てた。 文政9年オランダ商館長の江戸参府に随行して1カ月余り江戸に滞在。その間,高橋景保,大槻玄沢,宇田川榕庵ら,江戸の蘭学者とも親しくなった。そこにいわゆる「シーボルト事件」の種子が芽生える。長崎へ帰ったシーボルトと高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで,間宮が疑惑を持ったのをきっかけに,同11年に任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が嵐によって戻された際に,荷物が調べられて,国禁違反が発覚。高橋がシーボルトの『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』とオランダ領のアジア地図などと引き換えに,伊能忠敬の『日本沿海測量図』のコピーなどをシーボルトに渡していたこと,そのほかにも葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていたことが明らかになって,高橋は裁判の途中に獄中で死亡,シーボルトも国外追放となり,同12年12月に日本を去った。 ヨーロッパに戻ったシーボルトは,日本関係の書物を次々に発表して,日本学の権威としてヨーロッパで重要視されるようになった。またオランダ国王を動かして幕府に開国を勧める親書を起草し,この親書は弘化1(1844)年に幕府に伝えられたが,幕府はこれを拒否,さらに,日本が開国した際にヨーロッパ諸国と結ぶべき条約の私案を起草してオランダ政府に伝え,この条約案は嘉永5(1852)年にクルティウスに託されて幕府の手に届いている。開国後,クルティウスはシーボルトに対する追放の解除を幕府に要請,安政5(1858)年日蘭修好条約の締結とともに実現,同6年シーボルトは念願の再来日を果たした。しかし文久2(1862)年に維新の成立をみぬまま日本を去り,ミュンヘンで亡くなった。再来日に際して帯同していた長男のアレクサンダーは,そのまま日本に留まり,イギリス公使館通訳,明治3(1870)年以降は政府のお雇いとして,外交政策などの相談役となり,次男のハインリヒも同2年に来日,外交官として長年日本に滞在した。さらに長崎時代に日本の女性楠本其扇(お滝)との間に生まれた楠本イネは,のちに産科医として知られるようになった。 シーボルトの学問的業績は,医師として臨床面で日本の人々に大きな福音を残し,さらに多くの蘭医を育てたことは,高く評価されなければならないが,それにもまして重要なのは,ヨーロッパに彼によって紹介された日本の風物である。最も重要なのは,通称『日本』もしくは『日本誌』すなわち『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)についての記述集成』としてライデンで1832年から54年までかかって刊行されたもので,日本についての浩翰で巨大な総合的研究書である。このほか『日本動物誌』(1833~50),『日本植物誌』(1835~70)は学問的に貴重な業績である。<参考文献>呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』(東洋文庫),板沢武雄『シーボルト』

(村上陽一郎)

シーボルト

没年:1911.1.23(1911.1.23)
生年:1846.8.16
明治期のお雇い外国人。ドイツ人。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男としてオランダ・ライデンに生まれる。安政6(1859)年父に連れられて来日。日本語を習い,文久2(1862)年から明治3(1870)年まで在日イギリス公使館勤務。その間1866年パリ万国博覧会参加の徳川昭武一行に付いて訪欧,一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報した。3年民部省雇となり,外債切り替え交渉のため特例弁務使上野景範に従ってロンドンへ出張。6年太政官正院翻訳局に配属され,ウィーン万国博覧会副総裁佐野常民に随行。8年大蔵省雇。11年外務省雇に転じ,パリ万国博覧会副総裁松方正義に随行,万博後在独公使館付となる。15年条約改正予議会,19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ,通訳官を務める。会議無期延期直後,了解工作のため内命を受けてヨーロッパ各国を歴訪,以後は終生ヨーロッパにあって新聞論調の本省への報告などに従事した。この間1894年日英条約改正交渉のため特命全権公使青木周蔵に付いてロンドンへ出張。また日清戦争,日露戦争の際は世論工作にも従事した。1910年勲1等瑞宝章受章。<著作>《Ph.Fr.von Siebold’s Letzte Reise nach Japan,1859~1862》

(廣瀬靖子)

シーボルト

没年:1908.8.11(1908.8.11)
生年:1852.7.21
幕末明治期のオーストリア=ハンガリー帝国の外交官。ライン河畔ボッパルトに医学者フィリップの次男として生まれる。父の影響で東洋の文化と歴史に関心を抱く。駐日イギリス公使館通訳官の兄アレキサンダーが一時帰国した際,その秘書に日本語を学び,1869年兄と一緒に日本に発つ。明治5(1872)年1月日本代表部の臨時通訳練習生,10月ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係となった。翌6年1月,博覧会への陳列品と共にウィーンに行き,同年3月名誉通訳官に昇任,翌年6月再来日した。明治16年2月領事館官房書記官,その後代理公使,横浜代理領事,1等官房書記官,上海総領事代理などを歴任し,同29年7月10日離日した。『日本考古学覚書』(1879),『アイヌ民族研究』(1881)を書く。

(内海孝)

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百科事典マイペディア 「シーボルト」の意味・わかりやすい解説

シーボルト

ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英,高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。→蘭学
→関連項目伊藤圭介川原慶賀ジーボルト島津重豪東韃紀行間宮林蔵丸山最上徳内

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改訂新版 世界大百科事典 「シーボルト」の意味・わかりやすい解説

シーボルト
Philipp Franz Balthasar von Siebold
生没年:1796-1866

江戸後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれる。大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に学塾兼診療所(鳴滝塾)を開設した。吉雄権之助らオランダ通詞をはじめ,美馬順三,高野長英,伊東玄朴,高良斎ら多数の日本人を蘭学者として育成,門人たちに課題を与えてオランダ語による論文を提出させた。これら提出論文とおびただしい収集資料にもとづいて日本研究を進め,26年春,商館長ド・ステュルレルの江戸参府に従い,江戸で天文方高橋景保,幕医土生玄碩(はぶげんせき)はじめ蘭学者と交際を深めた。28年,いわゆるシーボルト事件が起こって,翌年国外追放を受けた。オランダに戻り,研究成果を整理して大著《日本》を刊行(1832-52),《日本動物誌》《日本植物誌》をまとめた。58年(安政5)日蘭通商条約が締結されると,翌年再び来日,62年まで滞在。同行来日した長男アレクサンダーはイギリス駐日公使館員となり,次いで明治政府の外務省に雇用された。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)との間にできた娘いねは,楠本いねといい,のち女医となった。彼の《江戸参府紀行》は《異国叢書》と《東洋文庫》に収録され,《シーボルト日本交通貿易史》も《異国叢書》に収録されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シーボルト」の意味・わかりやすい解説

シーボルト
Siebold, Philipp Franz von

[生]1796.2.17. ウュルツブルク
[没]1866.10.18. ミュンヘン
ドイツの医者。江戸時代後期の文政6 (1823) 年長崎オランダ商館の医師として来日,翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き,伊東玄朴高野長英黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。商館長の江戸参府に随行 (26) ,日本に関する研究資料をも集めた。帰国に際し,いわゆるシーボルト事件を起し処罰され,文政 12 (29) 年に日本から追放された。安政6 (59) 年オランダ商事会社員として再来日,幕府の外交にも参与し,文久2 (62) 年帰国。『ニッポン』 Nippon (32~54) ,『日本植物誌』 Flora Japonica (35~70) ,『日本動物誌』 Fauna Japonica (33~50) など日本関係の論著が多い。

シーボルト
Siebold, Carl Theodor Ernst von

[生]1804.2.16. ウュルツブルク
[没]1885.4.7. ミュンヘン
ドイツの動物学者。 P.F.vonシーボルトの伯父にあたる。生物学者の家庭に生れ,ベルリン,ゲッティンゲン両大学に学んで,一時開業医を営んだのち,エルランゲン,フライブルク,ブレスラウ,ミュンヘン各大学教授をつとめた。彼が無脊椎動物を,F.スタニウスが脊椎動物を担当した共著『比較解剖学教科書』 Lehrbuch der vergleichenden Anatomie (1846) は,それまでの類書につきまとっていた哲学臭を一掃し,観察事実に基礎をおいて書かれた比較解剖学書として最初のものであった。 1852年には『動物学雑誌』 Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologieを発刊。これは生物学の専門誌として最も重要なものの一つとなった。彼は寄生虫学者としても著名であり,寄生虫がその生活史の各段階に応じて異なる種類の動物に寄生する場合のあることを,実例をあげて示した。

シーボルト
Siebold, Alexander Georg Gustav von

[生]1846.8.16. ライデン
[没]1911.1.23. テグリー
ドイツの外交官。 P.シーボルトの長子。安政6 (1859) 年父の再訪日に同伴して来日。三瀬周三らについて日本語を修得し,のち駐日イギリス公使館員 (通訳官) となり,明治3 (70) 年以後日本政府の外務省,ローマ,ベルリンの日本公使館に奉職,明治初期から中期にかけて日本の外交交渉に貢献し,1910年在職 40年にあたり勲二等瑞宝章を受けた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「シーボルト」の解説

シーボルト
Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold

1796.2.17~1866.10.18

ドイツ人医師・博物学者。ビュルツブルク出身。1823年(文政6)オランダ商館付医師として長崎に着任。日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究。翌年,鳴滝(なるたき)塾を開き,診療のかたわら岡研介・高良斎(こうりょうさい)・二宮敬作・高野長英ら数十人の門人に医学・博物学を教授し,蘭学発展に大いに貢献した。26年商館長に従い江戸に参府,桂川甫賢(ほけん)・大槻玄沢・高橋景保(かげやす)らと交流。28年の帰国の際,「大日本沿海輿地全図」などの禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し,翌年国外追放(シーボルト事件)。59年(安政6)オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交にも参与し,62年(文久2)帰国。ミュンヘンで没した。著書「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「シーボルト」の解説

シーボルト Siebold, Philipp Franz von

1796-1866 ドイツの医師,博物学者。
1796年2月17日生まれ。楠本(くすもと)いねの父。文政6年(1823)長崎出島のオランダ商館医として来日。鳴滝(なるたき)塾などで医学,博物学をおしえ,日本の洋学発展につくす。11年国禁の地図の海外持ち出しが発覚し,国外追放となる(シーボルト事件)。帰国後「日本」「日本植物誌」などをあらわす。安政6年再来日。長男,次男ものち日本で外交官として活躍。1866年10月18日死去。70歳。ビュルツブルク出身。

シーボルト Siebold, Heinrich Philipp von

1852-1908 ドイツ人外交官。
1852年7月21日ドイツのボッパルト生まれ。P.F.シーボルトの次男。明治2年(1869)兄A.G.シーボルトにしたがい来日。オーストリア-ハンガリー帝国公使館の代理公使,横浜領事代理,上海総領事などをつとめた。勤務のかたわら,考古学の研究にあたり,「考古説略」をあらわした。1908年8月11日死去。56歳。

シーボルト Siebold, Alexander Georg Gustav von

1846-1911 ドイツ人外交官。
1846年8月16日オランダのライデン生まれ。P.F.シーボルトの長男。安政6年(1859)再来日の父とともに長崎にくる。文久2年駐日イギリス公使館の通訳官となり,慶応3年幕府の遣欧使節一行に随行した。明治3年から日本政府にやとわれ,ベルリン駐在日本公使館書記官などをつとめた。1911年1月23日死去。64歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「シーボルト」の解説

シーボルト
Philipp Franz von Siebold

1796〜1866
江戸後期に来日した,ドイツの医師・博物学者
1823年オランダ商館医として長崎に来日。鳴滝塾を開いて高野長英・小関三英らに医学など西欧諸科学を教授,洋学の発展に貢献した。'28年シーボルト事件をおこし追放されたが,'58年日蘭通商条約締結で追放が解除され,'59年再来日。幕府の外交顧問となった。'62年帰国。主著に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』など。

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367日誕生日大事典 「シーボルト」の解説

シーボルト

生年月日:1846年8月16日
ドイツの外交官
1911年没

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世界大百科事典(旧版)内のシーボルトの言及

【アジサイ】より

…日本で〈〉の漢字を当てるのはこのためだとする説もある。シーボルトはアジサイをHydrangea otaksaと名づけたが,この〈オタクサ〉は彼の愛人だった長崎丸山の遊女〈お滝さん〉(本名楠本滝)に由来する。なおアジサイの語源には諸説あるが,《大言海》にある〈集(あづ)真(さ)藍(あい)の意〉という説が有力視されている。…

【伊藤圭介】より

…本草を水谷豊文,蘭学を藤林泰助,吉雄常三,野村立栄に学ぶ。1827年(文政10)長崎でシーボルトに学ぶ。名古屋の本草家の同好会嘗百社(しようひやくしや)の研究活動の中心となる。…

【伊能図】より

…これは未測量の九州以外について忠敬の測量結果を用い,在来の種々の国絵図を参考にして高橋景保が1809年(文化6)編修したものであり,〈日本輿地図藁(仮製日本輿地全図)〉と呼ばれる。 1829年(文政12),シーボルトが帰国する際,その所持品の中に伊能特小図の写しがあることが発覚して,この地図を与えた高橋景保は捕らえられて翌年獄死した。しかしシーボルトはこの図が押収されることを予知し,徹夜で写してバタビアへ送った。…

【角座】より

…1758年(宝暦8)並木正三が回り舞台を創案して大当りした。1826年(文政9)江戸参府の途次シーボルトが《妹背山婦女庭訓》を見物した劇場。大西芝居の衰退後も,幕末まで一貫して中の芝居(中座)と共に大芝居の劇場として隆盛を保つ。…

【川原慶賀】より

…通称登与助,字は種美,聴月楼主人ともいい,のち田口氏を称した。石崎融思に絵を学んだが,1823年(文政6)に来朝したシーボルトに画才を見いだされ,オランダ商館への出入りも許された。25年にはシーボルトがジャワから呼びよせたオランダ人画家フィレネーフェK.H.Villeneuveに洋風画法を学ぶ。…

【鯨志】より

…図は画工が,クジラを実見し,写生したものがもとになっている。来日したP.F.vonシーボルトは日本のクジラに関心をもち,門人の高野長英,石井宗謙,岡研介たちにクジラに関する論文を書かせた。シーボルトは,論文から得た知識を自著《日本Nippon》(1832‐52),《日本動物誌Fauna Japonica》(1833‐50)で利用している。…

【紅茶】より

…しかしその試みは必ずしも成功しなかった。1826年シーボルトが日本で入手した茶種をジャワに送ったところ,翌27年1500本の茶樹が育った。またヤコブソンによる中国からの移植も成功し,それがその後のインドネシアの茶産業の基礎となった。…

【石器時代】より

…のち,イギリスのJ.ラボックは,石器時代を旧石器時代と新石器時代とに分け(1865),またイギリスのH.M.ウェストロップが両者間に中石器時代の存在を提唱した(1872)。日本に石器時代が存在したことは,P.F.vonシーボルトの《日本》(1832‐51)で初めて指摘された。明治時代には,石期,石属世期などの呼称もあったが,三宅米吉が石器時代とよんで(1894)以来この名が普及した。…

【ドイツ】より

…彼は1690年(元禄3)オランダ商館医師として来日,2年間の滞在の間に《日本誌》を著した。次いで1822年同じく医師として来たシーボルトは,鳴滝に塾を開き,多くの門人に医学をはじめ西洋の科学技術を伝授して,日本文化に大きな影響を与えた。また彼は,長崎から江戸への参府紀行を記すとともに,弟子たちに日本の歴史,地理,神話,動植物等についての報告書を提出させ,それに基づいて名著《日本》《日本植物誌》《日本動物誌》を世に問うた。…

【鳴滝塾】より

シーボルトが長崎に設けた学舎。シーボルトは1823年(文政6)に出島商館付医師として日本に着任し,長崎奉行の特別の好意により,はじめ商館の外科室で,ついで市内の外科医吉雄幸載および楢林宗建の私塾を借りて,患者の診療と医学生の教育にあたった。…

【日本】より

シーボルトの著書。原題は《Nippon》。…

【ピアノ】より

…特殊なものとしては,19世紀末からレコードが普及するまで一時流行したロール紙を使った自動ピアノ(ピアノラ)や,弦振動を電気的に増幅する電気ピアノ,電子音の合成により人工的に音を作り出す電子ピアノなどがあり,とくに電子ピアノは音楽教育やポピュラー音楽でもよく使用されている。
【日本におけるピアノ】
 日本にピアノが伝来したのは幕末期で,シーボルトが1823年(文政6)に持参したものがおそらく現存最古のものと思われる(萩市熊谷美術館)。80年には音楽取調掛の教師として来日したメーソンLuther Whiting Mason(1818‐96)がアップライト・ピアノを持参しており,その後同掛でもアメリカからスクエア・ピアノを10台購入している。…

【ホフマン】より

…ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。彼はシーボルトの大作《日本》(1832‐51)の編集・刊行に協力したほか,日本書のオランダ訳の刊行にも尽力したが,とくにその著《日本文法Japansche Spraakleer》(1867)は,この方面における画期的な労作として記憶さるべきものである。…

【最上徳内】より

…98年近藤重蔵とともに択捉島に渡り,1805(文化2),06年目付遠山景晋(かげみち)の西蝦夷地調査を案内し,07年には箱館奉行支配調役並となり,ロシア船来航に際し斜里,樺太に派遣されて諸藩兵の監察にあたった。26年(文政9)シーボルトが江戸に来たとき,その求めに応じて自分の蝦夷地測量図を貸し,アイヌ語辞典編纂を援助した。シーボルトはその著《日本》にこれらのことを載せ,徳内の業績をたたえた。…

※「シーボルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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