改訂新版 世界大百科事典 「ジェファソン」の意味・わかりやすい解説
ジェファソン
Thomas Jefferson
生没年:1743-1826
アメリカ合衆国第3代大統領。在職1801-09年。〈アメリカ独立宣言〉(1776)の起草者として有名。バージニア西部アルブマール郡に生まれ,1769年以来同郡の代表としてバージニア植民地議会(イギリス本国との抗争が激しくなった1775年以後は,バージニア革命協議会)に選ばれた。76年33歳の若さで大陸会議において〈独立宣言〉の起草委員の一人に指名されたのは,1774年バージニア革命協議会の一員として《イギリス領アメリカの諸権利についての意見の要約》を著し,文筆家としての名声が高かったことによる。〈独立宣言〉採択後はバージニアに帰り,邦議会において法制改革--とくに長子相続制・限嗣相続制の廃止およびバージニア信教自由法の成立--に努めた。パトリック・ヘンリーの後を継いで,バージニア邦知事の役を1期果たした。84年から5年間(1785年からは駐仏公使として),革命勃発直後までフランスに滞在。当時まだ西欧文明のフロンティアであったアメリカから来て,彼はフランスの洗練された文化に感銘を受けたが,同時にそのような文化は国民の大部分(とくに農民)の犠牲の上に成り立っていることを看取し,簡素ではあるが堅実な自国文化への確信を高めた。この間,連邦憲法制定会議(1787)には出席せず,憲法案を知らされてからは,基本的権利・自由を明記すること(〈権利章典〉を付すこと)および大統領の任期を制限することを条件に,それを支持した。
90年初代大統領G.ワシントンのもとに,国務長官に就任。しかし当時国務長官の権限は限られており,新興国としてのアメリカの基礎づくりは,財務長官A.ハミルトンの手になることが多かった。両者は財政政策・外交政策をめぐって激しく対立し,この対立は,アメリカ最初の全国的政党--フェデラリスツおよびリパブリカンズ--の形成に発展した。ジェファソンはリパブリカンズの代表的人物とみなされた。93年国務長官を辞したが,97年フェデラリスツのジョン・アダムズのもとで副大統領に選ばれた。この時代,対仏関係の悪化に伴う反政府活動を規制する目的で〈外人法・治安法〉が作られたが,彼はそれを批判する文書を匿名で著し,ケンタッキー州のリパブリカンズ支持者たちはそれを公的声明として採択させることに成功した(ケンタッキー・バージニア決議)。1800年の大統領選挙においてリパブリカンズは勝利し,彼は大統領に選出され,就任演説で,アメリカは〈人類最上の希望〉であると述べた。大統領在任中の最大の功績は,ルイジアナ購入(1803)である。合衆国領土は一挙に倍加し,太平洋岸までの発展が保障された。ナポレオン戦争時には,アメリカの中立国としての権利を守るために,〈出港禁止法〉(1807-09)の制定・実施に努める。外国との通商に依存していた地域,とくにニューイングランドの反対などにより,期待どおりの成果はあがらなかったが,国際紛争の平和的解決手段として,その意義は認められよう。
彼は広く科学,農業,建築,音楽に関心をもっていた。《バージニア覚書》(1785,パリ初版)は彼の唯一の著作であるが(しかし生涯5万通の書簡を残したと推定されている),彼の博学を十分に伝える。また新しい総合大学設立の構想に熱意を示し,バージニア大学の開校(1825)として結実した。このように自由の使徒,啓蒙思想家としての彼の評価は高いが,黒人奴隷制に対する態度のあいまいさは顕著であった。黒人奴隷制の存在に悩み,奴隷の境遇改善を願うことにおいて彼は人後に落ちなかった。しかし,その制度の廃止を公的に発言しなかったところに,アメリカは〈自由の帝国〉であるとする彼の思想と実践の限界があった。このような限界があったにせよ,彼がアメリカの未来に対して崇高なビジョンを提起したことは否めないのであり,アメリカはそのビジョンの達成という大きな〈重荷〉を,その後もつにいたるのである。
執筆者:明石 紀雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報