ジンナー(読み)じんなー(英語表記)Muhammad Alī Jinnāh

精選版 日本国語大辞典 「ジンナー」の意味・読み・例文・類語

ジンナー

(Mohammed Ali Jinnah モハメッド=アリ━) パキスタン政治家独立後初代のパキスタン総督(在職一九四七━四八)。カラチの人。イギリスに留学し、弁護士を経て、インドムスリム連盟議長となる。第二次世界大戦中その勢力を伸ばし、戦後二年目にインドから分離独立してパキスタンを自治領にした。(一八七六‐一九四八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジンナー」の意味・わかりやすい解説

ジンナー
じんなー
Muhammad Alī Jinnāh
(1876―1948)

インド・ムスリム連盟指導者、初代パキスタン総督。パキスタンでは「建国の父」「偉大な指導者」とよばれている。カラチの皮革商の家に生まれ、イギリスに留学し、弁護士の資格をとり、ボンベイ(現ムンバイ)で開業した。1906年、国民会議派議長のナオロジー秘書となり、政治生活に入った。インド・ムスリム連盟の大会にも参加し、1913年には国民会議派の指導者ゴーカレーについてイギリスに渡った。1916年、インド・ムスリム連盟の議長としてラクナウ協定を国民会議派との間で結び、インドの自治を目ざして両派の合意をもたらし、1920年代初めまでヒンドゥー、ムスリムの協調のために活躍した。その後1930年代前半までは政治から退いていたが、1937年、州議会選挙で連盟の敗北を機に、連盟の再建に努め、1940年には連盟議長として、ムスリムが多く住んでいる地域の分離を目標とした「ラホール決議」を通過させた。こののち連盟は、パキスタンの分離独立を目ざしてイギリスと国民会議派を相手に、非妥協的に交渉した。1947年8月インドから分離独立したパキスタン自治領の初代総督となり、強力な指導者として国づくりにとりかかったときに死去した。

[加賀谷寛]

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改訂新版 世界大百科事典 「ジンナー」の意味・わかりやすい解説

ジンナー
Muḥammad Alī Jinnāh
生没年:1876-1948

〈パキスタン建国の父〉とされる政治家。ホジャ派ムスリムの皮革商の子としてカラチに生まれた。1896年弁護士の資格を得てロンドンから帰国後,ボンベイで弁護士として名をなし,1906年D.ナオロージーの秘書を務めたことを機に政治活動に入った。初期においてはヒンドゥーとムスリムの統一に基づく民族運動の路線を進み,16年ムスリム連盟議長となり,インドの自治に関する国民会議派・ムスリム連盟協定の成立に尽力し,自治要求連盟でも積極的役割を果たした。しかし20年のガンディー指導の非暴力的抵抗闘争には強く反対し,会議派を離れた。20-30年代初め,長くロンドンに滞在する中で,インド・ムスリム独自の利害擁護の方向に傾いた。34年帰国後は,分裂・停滞していたムスリム連盟の組織再建に着手し,37年以降一定の成果を収め,ガンディー・国民会議派との対抗姿勢をいっそう鮮明にした。40年の連盟ラホール大会でヒンドゥー・ムスリム〈二民族論〉を展開し,ムスリム多住地区の分離をうたう〈パキスタン決議〉を採択させた。以後連盟を学生・農民を含む広範な層にまで基盤を有する大衆的政党へとしだいに強化し,イギリス統治者に対して,国民会議派と同等の交渉相手としての位置に高めた。独立後初代のパキスタン総督となったが,パキスタンをイスラム国家でなく,世俗国家とすべきであることを宣言。48年11月病死し,新生国は早くも政治的危機を迎えた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジンナー」の解説

ジンナー
Mohammad Ali Jinnah

1876~1948

パキスタン建国の父。ホージャ派ムスリム出身で,インド・ムスリムのなかの少数派に属した。初めはインド国民会議派の穏健派として活動。ムスリム連盟に正式に加入したのは,連盟創設から7年経った1913年であった。16年に連盟の議長に選出されると,連盟と会議派の政治協定(ラクナウ協定)の締結に尽力した。しかしガンディーの指導する非協力運動に反対し,会議派から離れた(20年)。20年代から30年代初頭にかけては,イギリスで生活するなど政治的に孤立したが,34年に帰国。連盟の組織を再建し,40年には二民族論にもとづくパキスタン決議を採択させ,第二次世界大戦中に連盟の組織を地方にまで伸ばし,ムスリム大衆の間に根づかせることに成功した。パキスタン独立とともに初代総督に就任したが,48年病死した。近代的・合理的かつ冷徹な性格の政治家として知られ,パキスタンは世俗国家であるとした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジンナー」の意味・わかりやすい解説

ジンナー
Jinnah, Mohammed Ali

[生]1876.12.25. カラチ
[没]1948.9.11. カラチ
パキスタンの政治家。パキスタン建国の祖。イギリス留学後 1896年帰国,弁護士となり,インド国民会議派に加わった。しかし 1913年ムスリム連盟 (→インド・ムスリム連盟 ) に迎え入れられ,総裁に選出された。穏健派イスラム教徒で,当初ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の統一によるインド独立を目指したが,国民会議派のヒンドゥー的立場に立った政策,過激な反英行動に不満を感じ,国民会議派と決裂した。一時インドを離れたが 34年帰国。危機に瀕したイスラム教徒の権益保護のためムスリム連盟を強大な組織につくり変え,パキスタン建国運動を展開した。 47年8月パキスタン建国が実現し,「最高の指導者」 qaid-i-azamの称号を贈られたが,過労のため病没。

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百科事典マイペディア 「ジンナー」の意味・わかりやすい解説

ジンナー

パキスタンの政治家。英国に留学,帰国後インド国民会議派に参加するが,1913年ムスリム連盟に転じ,1916年以後終身総裁となる。1943年以降は会議派と対立してパキスタンの分離独立に努力した。パキスタンでは独立の父とされ,1947年パキスタンが自治領となったとき,初代総督に就任した。
→関連項目パキスタン

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジンナー」の解説

ジンナー
Mohamed Ali Jinnah

1876〜1948
パキスタン建国の父。インド生まれのイスラーム教徒の指導者
インド国民会議派に加わり,民族運動に活躍。のち同派を離れ,全インド−ムスリム連盟の総裁となってパキスタンの分離独立に成功し,1947年初代総督となった。

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世界大百科事典(旧版)内のジンナーの言及

【国民会議派】より

…そして初め国民会議派に所属して活動していた社会主義者や共産主義者たちは,45‐47年にこれから離れ,それぞれ独自の政党へと結集していく。国民会議派は決して特定の宗教・宗派の成員のみから成るコミュナルな組織ではなく,すべての住民・領域を統合した形でインドをイギリスから独立させることを望んだが,1930年代後半から急速にムスリム大衆を把握し,ムスリム多住地域の分離を強調するM.A.ジンナー指導下のムスリム連盟との長い交渉を成功させ得ず,結局は現実的な立場からインドの分割を容認することになる。 47年の分離独立後,国民会議派は中央およびすべての州の政権を掌握し,ネルーとパテールの共同による卓越した指導力で安定した政府を樹立し,また外交面では米ソいずれにも偏らない非同盟政策を推進することで新興の第三世界諸国の中での地位を高めた。…

※「ジンナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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