ストルーベ家(読み)ストルーベけ(英語表記)Struves

改訂新版 世界大百科事典 「ストルーベ家」の意味・わかりやすい解説

ストルーベ家 (ストルーベけ)
Struves

シュトルーベともいう。250年にわたり顕著な学者軍人外交官を輩出した家系。次の6人は天文学者として有名。

(1)フリードリヒFriedrich Georg Wilhelm von Struve(1793-1864) ドイツに生まれ,15歳のときロシアに移住哲学と天文学を学ぶ。ロシア名ワシーリー・ヤコブレビチ・ストルーベ。1813年よりドルパート(エストニアタルトゥ)の天文台で星の精密位置を観測。24年よりJ.vonフラウンホーファーが設計製作した24cmの屈折望遠鏡を用いて8.5等以上の星12万個を調べ,2200組の新二重星を発見,37年に2640組の二重星カタログを出版。これらの星は現在もこのカタログの番号によってΣ何番と呼称される。二重星は18世紀にW.ハーシェルが初めて発見し,19世紀の天文学の最大研究課題となったが,このカタログはその基礎を樹立したものである。当時ヨーロッパ各国は,航海術と測地への応用の目的もあって国立の大天文台を次々に建設したが,ロシアではストルーベに命じてプルコボ天文台(現在のサンクト・ペテルブルグの南)を作らせた。39年世界一の39cm屈折望遠鏡が完成,彼はその台長に任ぜられ,位置天文学と測地天文学の基礎作りに大きく貢献した。40年にはベガ(織女星)の視差を測定。これははくちょう座61星とケンタウルス座α星に次ぐ3番目の視差だった。歳差定数もかなりよい値を推定。さらに銀河系の構造も研究し,W.ハーシェルと同じ凸レンズ状との結論を得たが,その大きさは無限に大きく,星間空間で光が減衰するために近傍しか見えないという進歩した見解をもった。すべて19世紀前半の位置天文学諸分野をリードした業績である。

(2)オットー・ウィルヘルムOtto Wilhelm von S.(1819-1905) (1)の息子。1862年プルコボ天文台長となる。父と同じく二重星を探索,彼の発見した514組はOΣ何番と呼ばれている。

(3)カール・ヘルマンKarl Hermann von S.(1854-1920) (2)の長男。ドイツで活躍。ケーニヒスベルク天文台長,ベルリンのバーベルスベルク天文台長を歴任惑星衛星の観測研究,とくに土星の輪の研究で知られる。

(4)グスタフGustav Wilhelm Ludwig von S.(1858-1920) (2)の次男。ドルパート天文台などで銀河系の回転,太陽系の空間運動,月の位置などを研究,後にハリコフ,クリミアの天文台長を歴任した。

(5)ゲオルクGeorg Otto Hermann von S.(1886-1933) (3)の息子。1929年よりベルリン,バーベルスベルクの天文台で土星,天王星の衛星,小惑星エロスなどを研究した。

(6)オットーOtto S.(1897-1963) (4)の息子。ハリコフ大学在学中に第1次世界大戦に巻きこまれて従軍,戦後母校の講師になったがロシア革命にあってトルコに亡命し,家も職もない苦しい1年を過ごす。幸い叔父カールの妻の手引きで1921年渡米,ヤーキス天文台(シカゴ大学)に入る。観測研究にたちまち頭角をあらわして教授となり,32-47年の間ヤーキス兼マクドナルド天文台の台長となる。208cm反射望遠鏡の建設と運営につとめ,みずからもこの望遠鏡を用いておおぐま座29星,ほ座γ星など多くの連星系のスペクトルの観測,星間物質の分布と実体の研究,星の自転,うさぎ座17星,りょうけん座α2星など特異星のスペクトルの研究,連星系,とくに近接連星系とその進化の問題などでアメリカの天文学界をリードする一人となった。50年ヤーキス,マクドナルドの天文台長を辞任し,カリフォルニア大学の天文学科主任教授となって研究と学生の指導とに専念した。この間国際天文学連合の会長も1期つとめた。56年アメリカの国立電波天文台創設にあたりとくに懇望されて台長となり,その運営と電波天文学の発展に尽力したが,健康がすぐれず62年辞任,翌年死去した。多くの学術論文,著書のほかに,一般向けの解説記事をも多く書いた。
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