タンジェリン・ドリーム(読み)たんじぇりんどりーむ(英語表記)Tangerine Dream

日本大百科全書(ニッポニカ) 「タンジェリン・ドリーム」の意味・わかりやすい解説

タンジェリン・ドリーム
たんじぇりんどりーむ
Tangerine Dream

ドイツのシンセサイザー・ミュージックの代表的グループ。ドイツは電子音楽大国であるというイメージを決定づけた最大の功労者である。

 タンジェリン・ドリームの歴史は、創設者エドガー・フレーゼEdgar Froese(1944―2015、ギター)のキャリアそのものである。フレーゼはドイツ領ティルジット(現、ロシア共和国ソビエツク)に生まれ、幼少時からピアノを学び、ベルリン芸術アカデミーに入学(絵画彫刻専攻)したころからギタリストとしてバンド活動も開始した。シュルレアリスムの画家サルバドール・ダリとの交友、あるいはジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドなどの新しい音楽表現との出会いを通じて、通常のロックやジャズ範疇(はんちゅう)に収まらない実験的音楽への情熱を強めていったフレーゼは、1967年にバンド、ザ・ワンズ(1965年結成。1967年にシングル盤を1枚リリース)を解散し、新たにタンジェリン・ドリームを結成した。最初のメンバーは、フォルカー・ホムバッハVolker Hombach(サックスフルートバイオリン)、ランス・ハプシャシュLanse Hapshash(ドラム)、クルト・ハーケンベルクKurt Herkenberg(ベース)、そしてフレーゼの4人で、ボーカルのチャーリー・プリンスCharlie Princeが随時加わった。当初演奏していたのはサイケデリック・ロックだった。1969年にいったんバンドを解散したが、ベルリンでサイ・フリーというバンドで活躍していたドラマーのクラウス・シュルツェKlaus Schulze(1947―2022)との出会いを機に、タンジェリン・ドリームを再編成。そこに、ヨーゼフ・ボイスJoseph Beuys(1921―1986)の下で彫刻やコンセプチュアル・アートを学んでいた実験音楽家コンラート・シュニッツラーConrad Schnitzler(1937―2011)もチェロ、バイオリン、フルートで加わった。このトリオにより1970年にオーア・レーベルから発表されたのが、デビュー・アルバム『エレクトロニック・メディテーション』Electronic Meditationであるが、ここではまだシンセサイザーは用いられておらず、ギター、オルガン、バイオリン、ドラムなどによるサイケデリック・ロックが展開されている。デビュー・アルバム発表と前後して、シュルツェとシュニッツラーが脱退。その後シュルツェは、アシュ・ラ・テンペルを経てソロ活動へ、またシュニッツラーもエラプションやクラスターを経てソロ活動に入り、ともに、シンセサイザー・ミュージシャンとして膨大な数の作品を発表する。

 フレーゼは、ベルリンの電子音楽グループ、アジテーション・フリーにいたクリストファー・フランケChristopher Franke(1953― )およびスティーブ・シュロイダーSteve Schroyder(1950― )を新メンバーに迎え、1971年にセカンド・アルバム『アルファ・ケンタウリ』Alpha Centauriを発表。シンセサイザーを導入したこのころから彼らの音楽に対しジャーナリズムでは「コズミック・ミュージック」という呼称が使われた。1972年、脱退したシュロイダーにかわり、ベルリンのバーニング・タッチというバンドでキーボードを担当していたペーター・バウマンPeter Baumann(1953― )が加入、以後1977年まで、フレーゼ、フランケ、バウマンのトリオによって、タンジェリン・ドリームの初期黄金時代が築かれた。1972年の『ツァイト』Zeit、1973年の『アテム』Atemによってヨーロッパでの人気を高めた彼らは、イギリスのバージン・レーベルと契約し、1974年発表の第5作『フェードラ』Phaedraによって世界的な名声を確立(ヨーロッパ各国でゴールド・ディスク獲得)。さらに1975年の『ルビコン』Rubyconや『リコシェ』Ricochet、1976年の『ストラトスフィア』Stratosfearといった作品で、硬質で抽象的な電子音と19世紀的ロマンティシズムの融合という独自のスタイルを確立した。すでにソロ・デビューしていたシュルツェとともに、1970年代後半のタンジェリン・ドリームの活躍によって、エレクトロニック・ミュージック大国としての西ドイツ(当時)のイメージは打ち立てられた。

 以後、1977年のバウマンの脱退(彼はソロ活動を続けた後、1980年代には、ニュー・エイジ・ミュージック・ムーブメントの一翼を担った新レーベル、プライベート・ミュージックを設立した)や1988年のフランケの脱退(1990年代以降はロサンゼルスを拠点に、映画音楽制作など幅広い活動を展開)など、何度ものメンバー交替を経て、1988年以降は、エドガーとその息子ジェローム・フレーゼJerome Froese(1970― )を核にしたユニットとして活動を続ける。多くのサウンド・トラックも含め、これまでに正規に発表されたアルバムだけで70~80枚ほどもあり、そのキャリアは、ジャーマン・エレクトロニック・ミュージック/テクノの父祖とよぶにふさわしいものである。しかし、その音づくりは、シンセサイザーに種々の生楽器を絡ませるなど随時くふうを加えてはきたものの、1980年代以降は確立されたスタイルの紋切り型によるムード・ミュージックに堕している。

[松山晋也]

『間章著『非時と廃墟そして鏡』(1988・深夜叢書社)』

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