チベット史(読み)チベットし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チベット史」の意味・わかりやすい解説

チベット史
チベットし

漢代に 氐 (てい) ,羌 (きょう) と呼ばれた民族と唐代のチベット人の国家「吐蕃」との関係は必ずしも明らかではないが,彼らも吐蕃の構成要素をなしたものと考えられる。吐蕃王国の中核になった部族はチベット西部のム族,女国,トン部族などと関係が深く,東遷してカム地方に君臨し,次いで中央チベット南部,6世紀なかばにはその北部,今日のラサ方面を掌握して勢力を伸ばし,7世紀初めスムパ族と連合して王国を樹立した。以来,吐谷渾 (とよくこん) の争奪から始めて唐と2世紀近く争いながら,終始その文化的影響を受けた。吐蕃王国の滅亡後,王国成立以前のように諸氏族が各地に割拠した。彼らのうち東西の国境地帯にいた者が,吐蕃末期以来民間に浸透した仏教を重視し,僧団を保護したため,僧団の周辺に集落が発達して繁栄した。この傾向は次第に中央チベットに波及し,僧団のもつ権益をめぐって有力な氏族が寺院を支配して,サキャ派をはじめとする氏族単位の教団が生れた。 13世紀にモンゴルに侵略され,元朝の支配下に入ると,サキャパが代理統治にあたって栄えたが,元朝衰退とともにパクモドゥパが最も強力となり,次いでリンプンパ,シンシャクパが権力を握った。この間,権力は中央チベットの西部から東部,東部から西部に移行したが,統一国家としての権力ではなく,最も強力な氏族が私権をほしいままにした状態に近かった。 15世紀初め,ツォンカパによる宗教改革が行われると,やがてカルマ派 (→カーギュ派 ) を中心とした非改革派との間に勢力争いが生じ,これが中央チベットの東西に分れた諸氏族の争いと結びついて次第に激化し,ダライ・ラマ5世を推戴する改革派はオイラート (瓦剌)の軍を導入して,西部に拠ったカルマ・テンキョン・ワンポ (→蔵巴汗〈ぞうはかん〉 ) の政府を滅ぼし,1642年ダライ・ラマ政権を出発させた。その後ダライ・ラマ6世のとき,清朝干渉が始り,やがて宗主権が確立され,パンチェン・ラマ勢力により,あたかも西部勢力を代弁するかのような分派的行動が始った。 18世紀末のグルカー戦争,19世紀の摂政専権の混乱期を経てダライ・ラマ 13世がロシアイギリス,清朝の間にもまれて独立運動を試みたが成功せず,パンチェン・ラマ周辺の勢力が中国国民党と結び,次いで共産党に同調して 1965年以後,新中国自治区となって今日にいたっている。

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