ディディ・ユベルマン(読み)でぃでぃゆべるまん(英語表記)Georges Didi-Huberman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ディディ・ユベルマン」の意味・わかりやすい解説

ディディ・ユベルマン
でぃでぃゆべるまん
Georges Didi-Huberman
(1953― )

フランスの美術史家、哲学者。サンテティエンヌに生まれる。リヨン大学で哲学を専攻。1974年に同大学で学士号を取得後、専攻を美術史に変え、1976年に修士号取得。その後パリの社会科学高等研究院に移り、ルイ・マラン、ユベール・ダミッシュのもとで美術史研究を続けるかたわら、舞台女優の姉と1984年まで演劇活動を続ける。1986年までアカデミー・ド・フランス研究生としてローマに、1988年までハーバード大学研究奨学生としてフィレンツェに滞在。1990年より社会科学高等研究院助教授となる。

 最初の著作はヒステリーという心的疾患の徴候を確定したジャン・マルタン・シャルコーとパリのサルペトリエール病院の写真撮影室主任アルベール・ロンドAlbert Londe(1858―1917)の二人が残した写真を論じた『アウラ・ヒステリカ――パリ精神病院の写真図像集』Invention de l'hystérie; Charcot et l'iconographie photographique de la Salpêtrière(1982)である。さらにはシャルコーの著作『美術に憑(つ)かれた悪魔憑きたち』Les démoniaques dans l'art(1884)の復刻、注解の作業を通して、サルペトリエール病院内でシャルコーが好んだルーベンスルネサンス、バロック期の悪魔憑きのイメージと、そこに描かれた人物像とまったく同じようにふるまうヒステリーの女性たち、そしてそれらをみつめる医師の眼差(まなざ)しという三項の関係を見事に分析する。ディディ・ユベルマンはそれをイメージを媒体とする「極限的なまでに激烈な転移の構造」であるという。そうした通常は美術史の対象とはなりえないようなイメージまでを分析の対象にし、哲学あるいは精神分析の用語を参照しつつ明らかにしようという姿勢は、イタリア滞在中の調査をもとにした大著『フラ・アンジェリコ――神秘神学と絵画表現』Fra Angelico; Dissemblance et figuration(1990)にもうかがわれる。そこでは15世紀の画家フラ・アンジェリコがフィレンツェ、サン・マルコ修道院に遺(のこ)した作品の散乱する色斑(いろむら)が痕跡(こんせき)として指し示しているところを、同時代の神学テクストの解読を通して明らかにする。

 1992年の著作『我々が見ているもの、我々を見つめているもの』Ce que nous voyons, ce qui nous regardeなかでは、ワルター・ベンヤミンの「アウラ」aura(オリジナル作品がもつ「今」「ここ」という一回性の概念)を、単純な時系列を超えたできごとの邂逅(かいこう)や衝突を通して「見ているもの」と「見られているもの」の時空が織り合わされることにほかならないと述べる。また『時間を前に――美術史とイメージのアナクロニズムDevant le temps; Histoire de l'art et anachronisme des images(2000)では、1920~1930年代の思想家カール・アインシュタインCarl Einstein(1885―1940)やベンヤミンの著作を明確にアナクロニズムの思想として読み直す作業を通し、イメージがけっして無時間的な崇拝物でもなければ、実証主義的な美術史が信じるような一方向の時系列に属しているものでもなく、異なる複数の時間のモンタージュであると指摘した。作品を通していくつもの異質な世界が出会い、見る者を現在と過去の間で行きつ戻りつさせる弁証法的な体験、すなわちアナクロニズムという考えは、大著『残存するイメージ、アビ・ワールブルクによる美術史と亡霊の時』L'image survivante; Histoire de l'art et temps des fantômes selon Aby Warburg(2002)にも受け継がれている。ディディ・ユベルマンによれば、ワールブルクにとって時間は連続的とはいいがたく、地層、再発見、残存、復活といった概念を通して理解されるべきものであり、そこで芸術の歴史はより広い文化の歴史に組み込まれ、伝播(でんぱ)、残存の歴史となる。ワールブルクにとって、そしてその知を敷衍(ふえん)するディディ・ユベルマンにとって、問うべきは、イメージのなかの何が残存しているのか、さらに何がイメージのある部分を残存させているのかということであるとする。その答えとして、ディディ・ユベルマンはフロイトの「不気味なもの」(Unheimlich。心的生活において昔から親しいもので、抑圧の過程で疎遠にされたもの)を参照しつつ、痕跡あるいは残存として機能するためにはイメージが見る者の身体に直接働きかけ、見る者を完全にとらえてしまわなくてはならないと主張する。彼にとって重要なのはまさに、作品の意味作用すら不安定にし、そのアイデンティティを奪い取って、不安に満ちた不気味なものへと変えてしまうこの瞬間にほかならないのだ。

[松岡新一郎]

『谷川多佳子・和田ゆりえ訳『アウラ・ヒステリカ――パリ精神病院の写真図像集』(1990・リブロポート/改題再編『ヒステリーの発明――シャルコーとサルペトリエール写真図像集』上下・2014・みすず書房)』『寺田光徳、平岡洋子訳『フラ・アンジェリコ――神秘神学と絵画表現』(2001・平凡社)』『Devant le temps; Histoire de l'art et anachronisme des images (2000, Les Éditions de Minuit, Paris)』『L'image survivante; Histoire de l'art et temps des fantômes selon Aby Warburg (2002, Les Éditions de Minuit, Paris)』

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