改訂新版 世界大百科事典 「デュボス」の意味・わかりやすい解説
デュボス
Jean-Baptiste, abbé Dubos
生没年:1670-1742
18世紀フランスの歴史家。ボーベの商人の家に生まれパリに学ぶ。スペイン継承戦争におけるイギリスの利害やバイエルン選帝侯マクシミリアンのマニフェスト,カンブレー同盟の経過などについて書いた論文が外務大臣ド・トルシー侯爵marquis de Torcy,J.-B.Colbertに認められ,ルイ14世没後の摂政時代にヨーロッパ各地に派遣され老練な外交官ぶりを発揮。その報償として生地ボーベの近傍レゾンRezon町のノートル・ダム教会の司祭に任じられた。その後は文学と芸術,史学研究に専念,1718年《詩と絵画の批判的考察》を出版して美的価値の相対論を初めて唱えボルテールに絶賛された。〈新旧論争〉の系列の最後の主張の一つといえる。20年アカデミー・フランセーズ会員に選ばれ,22年にダシエが没するとその終身書記の席を継いだ。34年に出版した《ガリアにおけるフランス王権確立の批判的歴史》3巻は,ブーランビリエのフランク族のメロビング朝がローマ帝国を継承したとする説(ロマニスト派と名づけられた)に対して,フランク族はガリア人の招請によって統治者となったと考えるゲルマニスト説を唱えた。モンテスキューは《法の精神》でデュボスの主張を否定したが,19世紀にシャトーブリアンはフランク族史に暗いモンテスキューの批判は当たらないとした。フュステル・ド・クーランジュも20世紀のカミユ・ジュリアンもデュボス説に傾いている。
執筆者:松原 秀一
デュ・ボス
Charles Du Bos
生没年:1882-1939
フランスの批評家。上流階級の出身で該博な教養と敬虔な魂の持主であった彼にとって,批評とは,魂の地平における作品と自己との出会いを出発点として,そこに発見された問題を共感と内省とにより深化させる営みにほかならず,職業的な意味はほとんどなかった。評論集《近似》全7巻(1922-37)に論じられた対象はゲーテ,ペーターなどを含む国際的なひろがりをもち,音楽や美術にも及ぶ。ジッドやコンスタンを論じた個人研究もあるが,たえず文学・芸術に触れ,それを通して美的なものから霊的なものへと探求を進める日々の営みを生涯記しつづけた《日記》全9巻(1946-61)が,彼の最高の批評作品であるともいえる。
執筆者:清水 徹
デュボス
René Jule Dubos
生没年:1901-82
フランス生れのアメリカの微生物学者。パリの国立農業研究所に学んだのちアメリカに渡り(1924),ラトガーズ大学でS.A.ワクスマンについて研究後,ロックフェラー研究所に移る(1927)。抗生物質チロトリシンは彼の発見だが(1939),のちにグラミシジンJなどの混合物とわかった。抗生物質を微生物間の生態学的相互作用の観点からとらえて,感染論,環境論の側面で洞察にとむ議論を展開した。1960年ころからは医学と健康概念(《人間と適応》など),人類の活動と自然の調和を説く生態学的文明論(《内なる神》など),科学者の評伝(パスツール,エーブリー)など多数の著作を発表した。
執筆者:長野 敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報