世界大百科事典(旧版)内のトゥルキーの言及
【アラビア半島】より
…オスマン帝国のスルタンはエジプトのムハンマド・アリーにワッハーブ王国の討伐を命じ,その息子トゥースーンの率いるエジプト軍は,1811年にサウード軍を二聖都から追い,もう1人の息子イブラーヒームは18年にダルイーヤを陥れてワッハーブ王国を滅ぼした。 24年,ムハンマド・ブン・サウードの孫のトゥルキー(在位1824‐34)は,エジプト軍守備隊からリヤードを奪還し,第2次ワッハーブ王国が再建された。その子ファイサル1世Fayṣal I(在位1834‐38,43‐65)は,一時オスマン帝国によってカイロに幽閉されるが,43年に牢獄を脱出して復位し,半島の中・東部にその支配を広げた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」