トーキー(映画)(読み)とーきー(英語表記)talkie

翻訳|talkie

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トーキー(映画)」の意味・わかりやすい解説

トーキー(映画)
とーきー
talkie

発声映画のこと。トーキング・ピクチャーtalking pictureの略。サイレント無声)映画の対語。厳密には映像と音声が同期した映画をさす。リュミエール兄弟による1895年の初興行以来、しばらくの間、映画フィルムは自らの音を備えていなかった。しかし興行場では弁士が語り、楽師が音楽を演奏しており、かならずしも無音で映画が上映されていたわけではない。その後、映像と音声の同期が試みられた。商業的長編映画として初のトーキー映画は、1927年にアメリカのワーナー・ブラザースが公開した『ジャズ・シンガー』である。これはレコード盤映写機の同期によるバイタフォン方式によるものであった。翌年ウォルト・ディズニー社がミッキー・マウスのデビュー作としても知られる『蒸気船ウィリー』を発表する。この映画はフィルムそのものに音声情報を記録した、サウンド・トラック方式の最初の作品である。日本では1931年(昭和6)に松竹キネマが製作した『マダム女房』が本格的トーキー映画第1作とされている。

江口 浩]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のトーキー(映画)の言及

【ドイツ映画】より

…それでもドイツでは自由契約制度や貸しスタジオの設備が発達していて,良心的映画作家たちは独立プロダクションを設立し,大資本の制約をのがれて映画をつくる自由が残されていたため,G.W.パプストは,敗戦後のウィーンを描いた《喜びなき街》(1925)や,ルイズ・ブルックスを映画史に残るスターにした《パンドラの箱》(1928)および《淪落の女の日記》(1927)などをつくり,また,ゲアハルト・ランプレヒト監督《第五階級》(1925),ハウプトマンの劇によるフリードリヒ・ツェルニーク監督《織匠》(1927)など社会の冷酷な現実を描いた作品もつくられた。
[トーキー時代――トビス社の設立とパプスト監督の活躍]
 トーキーは,アメリカより約3年遅れて出発したが,まもなくドイツ独自のトーキー・システム〈トビス・クラングフィルムTobis‐Klangfilm式〉が完成され,1929年ころから本格的な製作が始まり,同時に高度なトラスト化が進んでウーファとトビスTobisの二大映画会社が市場を支配した。ワルター・ルットマン監督《世界のメロディ》(1929),ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《嘆きの天使》(1930),ラング監督《M》(1931),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931),レオンティーネ・ザガン監督《制服の処女》(1931),ウィリー・フォルスト監督《未完成交響楽》(1933),《たそがれの維納(ウイーン)》(1934)などがつくられ,また反ナチスの監督パプストは反戦映画《西部戦線一九一八年》(1930),資本主義社会の腐敗と偽善を痛烈に描いた《三文オペラ》(1931),労働者の国際的連帯を描いた《炭坑》(1931)などの問題作をつくり,ドイツの〈トーキー芸術〉確立に寄与した。…

【トーキー映画】より

…もっとも原始的なシステムは,劇場のスクリーンの背後に俳優や音響係りを配置して,せりふや音をスクリーンにシンクロナイズ(同調)させるもので,1895年に行われたリュミエールの映画会にも,D.W.グリフィス監督の《国民の創生》(1915)の特別公開にもこのシステムが使われたことがあるという。その後,エジソンの〈キネトフォン〉,あるいは〈キネトフォノグラフ〉をはじめ,いろいろなシステムが発明,改良されて,音響と音楽だけのサウンド版《ドン・フアン》(1926),歌唱場面だけを同時録音した〈パート(部分)トーキー〉の《ジャズ・シンガー》(1927)がつくられ,次いで全編に音声が伴う《紐育の灯》(1928)が最初の〈100%オール・トーキー〉として登場する。 ハリウッドの映画会社ワーナー・ブラザースがいちはやくトーキーの製作を始めたが,それはかならずしもそのころになってやっとトーキーの技術的基礎ができたからではなかった。…

【ナポレオン】より

…さらに3台のカメラで撮影した映像を3面のスクリーンに映写する〈ポリビジョン〉(または〈トリプル・エクラン(三面スクリーン)〉)と命名された映写方式がこの映画のためにガンス自身によって考案され,あるときは一つのイメージが三つの画面にひろがり,またあるときは三つのスクリーンに別々のイメージが映し出され,ラストのイタリア出撃のシーンをはじめ,いくつかのシーンで用いられて圧倒的なスペクタクル効果を上げた。 しかし,《ナポレオン》と同年にアメリカでは《ジャズ・シンガー》(1927)が公開され,それとともに映画はトーキー時代に突入し,大スクリーン方式への投資は顧みられず,そのため《ナポレオン》はほとんど完全な形で上映されることがなく(アメリカでは上映時間5時間のこの巨編が1時間20分に短縮され,スタンダード版に焼き直されて公開されただけであり,日本でも17.5ミリ版が公開されたにすぎなかった),興行的には惨敗した。ガンスは1934年にステレオ音響によるサウンド版《ナポレオン》を製作,44年,55年,71年にも新しいシーンや台詞や音響を付け加えた改変版を製作した。…

【20世紀フォックス[会社]】より

…フォックス映画社は,1906年に,アメリカの最初の映画常設館であったニッケルオデオンの経営からスタートしてしだいにニューヨークを中心に映画館を増やし,10年代には製作,配給も始め,バンプvamp女優第1号として知られる妖艶なスター,セダ・バラTheda Bara(1890‐1955)を売り出し,20年代にはアドルフ・ズーカーのパラマウント,マーカス・ローのMGMとともにハリウッド最大の映画企業体に成長した。〈ムービートンmovietone〉と名づけたフィルム式トーキーsound‐on‐film processを開発,ワーナー・ブラザースの〈バイタフォンvitaphone〉に対抗しつつトーキー実用化の先鞭をつけたが,トーキー特許権をめぐって金融資本に敗北,29年の経済恐慌から事業不振におちいり,ロックフェラー系のチェース・ナショナル銀行に大部分の株を買い占められ,35年,20世紀映画社と合併した。 20世紀フォックス映画のカラーをつくり上げたのは,42年から62年まで社長の任にあり,製作のすべてを掌握し,独裁的であるとさえいわれた強力で個性的なスパイロス・スクーラスSpyros Skouras(1893‐1971)と,1935年から56年まで製作本部長を担当し,62年からはスクーラスの後を継いで社長となったダリル・F.ザナックである。…

【日本映画】より

…やがて神奈川県大船に新スタジオが生まれるとともに,蒲田撮影所は閉鎖され(1936),〈蒲田調〉は〈大船調〉へとひきつがれた。また,京都太秦の元マキノ・トーキー撮影所を買収し(1940),松竹の京都第二撮影所とした。
[京都太秦と東京大泉]
 帝キネ(帝国キネマ演芸株式会社)は,元天活の小坂撮影所で映画製作にとりかかったあと,兵庫県芦屋に新スタジオを建て(1923),関東大震災の際には,東京における各社の映画製作がとだえたのを機に,小坂・芦屋の両撮影所で低予算の娯楽映画の大量生産を行い,また一時,元国活の巣鴨撮影所も使った。…

【ハリウッド】より

…同時に,殺人や麻薬,飲酒をめぐる事件など道徳的腐敗が相次いで暴露され,ハリウッドは〈スキャンダルの都〉としてジャーナリズムや宗教団体をはじめ社会の非難を浴び,1919年に設立されていたアメリカ映画製作・配給業者協会は,ハーディング内閣の郵政長官ウィル・H.ヘイズを年俸10万ドル(郵政長官の年俸は1万ドルであったという)で新会長に迎えて映画界の自粛と自主規制につとめた。
[トーキーの到来とウォール街]
 《ジャズ・シンガー》(1927)の成功によって映画はトーキーの時代を迎え,1928‐29年の2年間だけで5億ドルを超える資本が新たに投じられたといわれる。映画のトーキー化は,金融資本との結びつきによって実現されたが,その結果ハリウッドはクーン・ローブ財閥,モルガン財閥などに代表されるウォール街によって直接に支配されることになった。…

【モダン・タイムス】より

…《街の灯》(1931)と《チャップリンの独裁者》(1940)の間につくられた作品で,チャップリンはせりふなしで意味不明の歌詞を歌って声のみ聞かせる。音楽(作曲もチャップリン)とサウンド入りのパート・トーキー作品で,〈チャップリン芸術〉がサイレントからトーキーへ移行するはざまの重要な作品である。 冒頭に〈モダン・タイムスとは産業社会とその中での個人の努力――幸福を追いもとめて戦う人間の物語である〉という字幕が出る。…

※「トーキー(映画)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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