ドイツ美術(読み)ドイツびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ美術」の意味・わかりやすい解説

ドイツ美術 (ドイツびじゅつ)

本項は,いわゆるドイツ文化圏における美術の特質と流れを概観するもので,現在のドイツのほか,スイス,オーストリア,チェコ,アルザス地方などの美術活動を扱う。歴史的には幾度となくその国境の変更を余儀なくされながらも,ヨーロッパ大陸の中央部に広大な領土を有しつづけてきたドイツは,しかし絶えず周囲の国々から多大の文化的影響を受ける運命にあった。それはまた,隣接する諸地方へ働きかけるのにも好都合の条件ではあったが,こと美術に関するかぎり,ドイツは他へ与えるよりも,他から受け取ることのほうが多かった。フランスやイタリア,ネーデルラントで一つの美術様式が誕生すると,それが完成するのを待ってこれを自国へ摂取するのがドイツ美術の歴史の常套であった。ゴシックはフランスから,ルネサンスはイタリアから,そしてバロックもイタリアから流入してきたものである。これにはドイツ民族の二つの性格が関係している。すなわち一つは保守性である。一度自国に根づいた様式はこれを徹底的に墨守し,容易に変えようとはしない。フランスが華々しいゴシックの最盛期にあったとき,ドイツはロマネスクの伝統を維持し,フランスにようやくゴシック様式の終焉が訪れるころになって,これを摂取するのである。そしてイタリアにルネサンスが開花するころ,ドイツには中世美術の花が咲き乱れていた。この保守性は,これと表裏をなす〈末期様式〉の展開と関係する。一つの様式が完成期を過ぎると,それに内在する典型的規範は末期段階で非合理化されるほかはない。ここで,ドイツ民族の第2の性格である非合理な表現主義的形態への好みが発現する。

 一つの様式の末期は,これを他の様式へ質的に転換しないかぎり,これを極度に推し進めてゆくしかない。ドイツのゴシックやバロックがみせる表現主義的な幻想性はここから生ずる。その際のもっとも重要な表現手段は線であった。近世のイタリア人たちが,侮蔑の意味をこめてゲルマニアの原野に林立する樹木にもたとえたゴシック建築は,その末期においてまさに線の集合体と化す。それは垂直に上昇するのみならず,縦横に走り,斜めに横切って天井や支柱を自由にはいまわり,広大な堂内空間を一種の幻想郷へ仕立て上げる。線はまた版画や素描の表現手段でもある。ドイツ最大の画家とされるデューラーも,実は油彩画よりも版画によってこそ前人未到の世界を切り開いたのである。その起源からしてドイツの地を故郷とする版画は,彼によって一挙に完成の域へ引き上げられ,ヨーロッパに冠たる名声をドイツにもたらすことができた。彼の遺産は,オランダのレンブラントを経て20世紀初頭のドイツの表現主義者たちの創造にまで及んでいる。また版画は,ゲルマン民族特有の微視的な視覚構造の創出物であった。ラテン系民族の壮麗華美な外形を求める志向とは異なって,プロテスタンティズムを信奉する厳格で質素な北方の人々は,直接自己の内面へ沈潜する神秘的傾向が強く,小芸術たる版画はいわばこの内的沈潜と瞑想の私的発露の場でもあった。その点で,個人的,神秘的心情から生まれた中世の〈アンダハツビルトAndachtsbild〉(祈禱像)も,はなはだドイツ的な創造物であったといわなければならない。

今日のドイツの起源は8世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)の時期にまでさかのぼる。しかし彼の時代にはまだ本来のドイツという国は存在せず,ドイツ固有の文化や美術について論ずることができるのは,10世紀のオットー朝(ザクセン朝)に始まるロマネスク時代になってからである。しかしながら古代文化とキリスト教とを両輪としたカール大帝時代の文化政策は,バイキングやイスラムの侵攻を受けることの少なかったドイツの地にもっとも多く受け継がれ,その後のドイツ文化形成の大きな基礎となった。

 カール大帝がアーヘンの地に建立させた集中式プラン(八角形)の宮廷礼拝堂(805献堂)は,ラベンナのサン・ビターレ教会を手本として,フランク人メッツのオドOdo von Metzによって造営されたものである。ゲルマンの文化はこのころすでにモニュメンタルな石造建造物を独自の力で造営できる技術段階に達していたことが知られる。カールはこの礼拝堂の大理石石材やモザイクをラベンナから運ばせたが,それは彼が目ざしたローマ帝国の再興が,実際に古代の遺品の上に建設されることによっていっそう確かなものになると信じたからである。この一事例のなかにも,カールの時代がカロリング・ルネサンスの名で呼ばれることの理由をみることができよう。しかし古代からの摂取はこの集中式プランの建築よりも,長堂のバシリカ形式がもっと明瞭に示す。ザンクト・ガレン(スイス)やサン・リキエSaint-Riquier(フランス)の修道院教会は,この時期のバシリカの典型を語る例であるが,身廊の西側にも祭室を設けて東西二重内陣形式とし,西正面に堅牢な〈ウェストウェルクWestwerk〉(西構え)を置いて城塞のようにすることで,早くも古代のバシリカにはみられなかった独自の形態を創造している。カールはまたラベンナから大騎馬彫像をも運び込ませたが,当時はまだ北方世界には大型彫刻は生まれていず,むしろ小型の石彫や象牙浮彫や金属の工芸品が主流であった。皇帝の宮廷や修道院では,ヨーロッパ各地から招聘された学者や修道士が中心となって種々の手写本が作成された。これを飾るミニアチュールには多くの様式がみられ,ビザンティンの手本を予想させる《ゴデスカルクの福音書》や古代風の人物像を表す《カール大帝の福音書》,さらにはダイナミックな絵画的表現を示す《エボの福音書》が知られる。
カロリング朝美術

ロマネスク美術は,10世紀から13世紀中葉までのオットー(ザクセン),ザリエル,シュタウフェンの3朝にまたがり,皇帝,諸侯,修道院が中心となって勇壮で精神性の強い,幻想的な様式を生み出した。建築では二重内陣形式がカロリング朝から継承された。その典型的なロマネスク初期の例は,ヒルデスハイムザンクト・ミヒャエル教会(1033)である。身廊と袖廊(トランセプト)の交差部(フィールングVierung)を規準単位とする身廊の梁間独立の構想は注目すべきである。フィールングの上に塔を立て,その両脇にも小塔を配した二極構成は,中期ロマネスクのマリア・ラーハ修道院教会(1156)やマインツ,ウォルムス,シュパイヤーの諸大聖堂へ受け継がれて,ドイツ帝権の象徴ともいうべき壮大な雄姿を創造するにいたる。これに加えて,なかでもシュパイヤー大聖堂が建築史上にはじめて交差ボールトをもって身廊を完成した(1082-1112)ことは特筆すべきことであった。しかしその一方に,平天井を好んだ〈ヒルザウ派〉の建築のあったことも無視できない。またケルンのザンクト・マリア・イン・カピトル(1065献堂)やザンクト・アポステルン(聖使徒。1192-1219),マルティン(1172献堂)等の教会の三葉形祭室には,形を変えた集中式プランの伝統をみることができる。

 彫刻でまず挙げなければならないのは,ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル教会のために制作された青銅扉《ベルンワルトの扉》2面(1015)と円柱(1015-1022)であろう(現在,ヒルデスハイム大聖堂蔵)。前者は5mに達する巨大な1枚鋳のもので,《創世記》とキリスト伝の浮彫には人体表現の新しい試みがみられる。金属細工はこの時期ドイツのもっとも得意とした分野で,バーゼルの《黄金アンテペンディウム》(1019)や《ヘリベルトゥス遺物箱》(1160-70ころ)を経て,ニコラ・ド・ベルダンの《聖母遺物箱》(1205)の精巧な作品を生み出した。戸外に立つはじめての独立像といわれるブラウンシュワイクの《獅子像》(1160)がこの青銅をもって造られたのは象徴的である。ロマネスクの後半からは石や木,塑造による彫刻もしだいに丸みを増し,人間的な実在感を帯びるようになる。《ジーブルクの聖母子》(1160ころ),ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル教会およびハルバーシュタットの聖母教会の内陣仕切り浮彫,バーゼル大聖堂の〈ガルス玄関〉(12世紀後半),フライベルクFreibergの〈黄金の玄関〉(1230ころ),ウェクセルブルクWechselburgの《勝利の大磔刑像》(1230ころ)はその代表例である。

 窓の小さなロマネスク建築の堂内壁面は多彩なフレスコ画で覆われていたが,ライヘナウのオーバーツェルOberzellやシュワルツラインドルフSchwarzrheindorfのほかにその遺構はあまり多くない。代わって写本芸術はドイツ各地で最盛期を迎え,とくにロマネスク初期のライヘナウ修道院で作成された数々のミニアチュールには,豊麗な色彩と現実空間の再現を意図しない描写法とによる強烈な精神性の表現がみられる。《コデックス・エグベルティ》(990ころ),《ハインリヒ2世の福音書抄》(11世紀初頭),バンベルクの《黙示録》(11世紀初頭)はそのみごとな作例である。
オットー美術 →ロマネスク美術

ゴシック時代は,キリスト教と封建制の枠組みのなかで,しだいに都市の興隆と商業の発達をみた時期である。この都市の中央にそびえ立つ大聖堂は,市民のエネルギーを支えとしてなったものといえる。そのゴシック大聖堂建築は12世紀中葉の北フランスで成立し,13世紀初頭からはドイツへも移入されはじめる。しかしシュトラスブルク(1235ころ起工)やケルン(1248起工)のように北フランスのサン・ドニ修道院やアミアン大聖堂の影響を直接受けるのはむしろ例外に近く,多くはマールブルクのエリーザベト教会(1283献堂)やトリールの聖母教会(1243献堂)にみるように,ゴシックの要素を用いながらも,ドイツ固有の広い堂内空間の創出へ向かう。なかでも身廊と側廊とを同じ高さにしたエリーザベト教会のハレンキルヘ形式は,以後のドイツ・ゴシック教会堂建築の主流となって,ことに14,15世紀のパルラー家の手になるシュウェービッシュ・グミュントの聖十字架教会(1351起工)やコリーンKolinのザンクト・バルトロメウス教会(内陣,1360-85),シュテットハイマーH.Stetheimar(Stettheimer)によるランツフートのザンクト・マルティン教会(1392以前起工)へいたるドイツ特殊ゴシックの出発点となった。また11,12世紀以降ドイツ騎士修道会領として栄えた北ドイツでは,石材の少ないことから煉瓦建築が発達し,ハンザ都市の市民文化の興隆とあいまって広大な堂内空間をもつ建築群が成立した。リューベックの聖母教会(1260起工)やシュトラールズント,ダンチヒ(グダンスク)等の教区教会にこれをみることができる。

 彫刻ではまず1230年ころのバンベルクの作品群を挙げなくてはならない。《騎手》《エクレシア》《シナゴーグ》をはじめ,アミアン大聖堂の同題の彫像の感化を受けた《訪問》には,フランスにはない強い精神性の表現が果たされている。それらは同じく北フランス彫刻の流れを汲むシュトラスブルクやマクデブルクの彫像とともに,広くヨーロッパ彫刻史中屈指の名品に数えられる。しかしこれら以上にドイツ的感覚が結実したのは,14世紀前半,神秘思想のもとに生まれたウェステ・コーブルクVeste Coburgの《ピエタ》(1330-40ころ)やジクマリンゲンSigmaringenの《キリスト・ヨハネ群像》(1330ころ)のような一群の〈アンダハツビルト〉である。14世紀後半にはプラハ大聖堂に多くの作品(21体の胸像群は有名)を残したパルラー家の活躍があり,しだいに勃興し始めた市民階級に根ざした写実的様式への道が開かれる。以後1400年前後に現れる甘美な〈美しき聖母子〉の〈柔軟様式Weicher Stil〉を経て,ドイツ彫刻は中世末に隆盛期を迎え,ヘルハルト・ファン・レイデンNicolaus Gerhaert van Leyden(1420ころ-73),シュトース,フィッシャー(父)Peter Vischer(1460ころ-1529),ノトケBernt Notke(1440ころ-1509),リーメンシュナイダーらの輩出をみる。

 建築が窓を広げてステンド・グラスを発達させていった(マールブルクのエリーザベト教会,ケルン大聖堂)のに比例して壁画が減少し,代わって板絵がそれまでのミニアチュールを抑えて指導的な絵画ジャンルとなる。教皇庁のあった南フランス,アビニョンを経由してプラハへ伝えられたシエナ派のマルティーニの影響は,14世紀後半のボヘミア絵画の基礎となり,次いでハンブルクへ感化をおよぼしてマイスター・ベルトラムMeister Bertram(1335ころ-1415)の画面を生む。同じころ西方のパリやブルゴーニュ地方から流入してきた宮廷様式はマイスター・フランケやコンラート・フォン・ゾーストKonrad von Soest(1370ころ-1425ころ)の優雅な形式に結実し,やがて〈聖ベロニカ〉の画家Meister der hl. Veronika(生没年不詳)やロホナーのケルン派において全盛期を迎える(国際ゴシック様式)。一方南ドイツのモーザーLukas Moser(1390ころ- ?)やウィッツやムルチャーHans Multscher(1400ころ-67)には忠実な自然の観察がみられ,新時代到来の間近さを感じさせる。しかし15世紀後半のドイツ絵画で大きな役割を演じたのは,プライデンウルフHans Pleydenwurf( ?-1472),ウォルゲムートMichael Wolgemut(1434-1519),ションガウアー,ホルバイン(父),パッヒャーらであり,彼らはネーデルラント絵画や北イタリア絵画の直接間接の影響を受けた作品を創造し,デューラーの登場を準備した。
ゴシック美術

古代世界を再生させることを目標としたルネサンスは,直接古代を知らない北方,なかんずくドイツにおのずからイタリアとは異なる様相をもたらし,加えて宗教改革運動がドイツ固有の問題として,この期の社会を大きく揺り動かした。

 まず絵画では,デューラーとグリューネワルトとがドイツのルネサンスを代表する両雄である。前者はみずからイタリアへ赴いてルネサンス美術の教養を身につけ,合理的形態と線的表現手段とによってドイツ的心情に記念碑的形態を賦与した(《四人の使徒》1526)。後者の《イーゼンハイム祭壇画》(1515ころ)は燃えるような色彩によってドイツ的幻想性をうたい上げた作品である。この2人はまったく同一世代を生きながら(没年はともに1528年),ドイツ絵画の両極を支えた。デューラーの工房からはH.vonクルンバハ,H.L.ショイフェライン,H.バルドゥングらが巣立ったが,いずれも師の画域を超えることはなかった。このうちバルドゥングはグリューネワルトの色彩からも感化を受けながらも,後者の色彩の魔術へはいたりえなかった。しかし同じころドナウ川の沿岸で活躍した画家たち(ドナウ派)のうちアルトドルファーの画面には,グリューネワルトを思わせる色彩の固有な表現価値が生かされ,画期的な自然風景の描写をみせている。神話や聖書の女性を妖艶に描いたクラーナハも,その初期はドナウ派の一人であった。イタリア文化の流入都市アウクスブルクでブルクマイアが試みたイタリア・ルネサンス美術の摂取は,同地出身の後輩ホルバイン(子)においてみごとに開花する。ホルバインはドイツ・ルネサンス絵画を完成の域へ導いたが,後半生の活躍の舞台はロンドンであった。16世紀後半以降はネーデルラントとイタリアのマニエリスムの影響が強まり,ミュンヘンやプラハで活躍したF.ズストリスやスプランヘルらの外国人が重きをなし,T.シュティンマーエルスハイマーが出ても,かつての巨匠たちに匹敵する作品を生むにはいたらなかった。

 他国の創造したものを受け取ることを常套としたドイツ美術が,自他ともに優先権を主張しえた分野は版画である。紙の普及と印刷機の発明は,羊皮紙を用いる高価なミニアチュールに代わる廉価な印刷挿絵を広め,一般民衆の需要に呼応してやがて一枚刷の木版画と銅版画の隆盛をもたらした。それらはともにデューラーにおいて極まるが,微細な線のなかにすべてを凝縮する北方的造形意志の結実をそこにみることができる。

 彫刻もアウクスブルクとニュルンベルクから始まる。豪商の富に支えられたアウクスブルクではザンクト・アンナ教会のフッガー家礼拝堂の装飾が多くの彫刻家を集め,ダウハーHans Daucher(1485ころ-1538ころ)の《ピエタ》(1518)のような作品が成立する。この礼拝堂装飾にも携わったフィッシャー(父)は,故郷ニュルンベルクで大規模な鋳造工房を組織し,一族を統率して《ゼバルドゥス墓碑》(1519)を作り上げた。インスブルックの《マクシミリアン墓碑》(1550)の制作に加わったフィッシャー(子)Peter Vischer(1487-1528)は,〈ドイツのギベルティ〉ともいわれる。16世紀後半には絵画同様A.コーリンやA.deフリースの外国人の感化が強まり,なかんずく伝統的な金細工の流れを引くW.ヤムニッツァーらのマニエリスムの様式が支配的となる。

 世俗化の進んだルネサンス期には,ドイツにおいても諸侯の城館や都市の公共建築が発達した。イタリア出身の建築家たちの指導のもとになったプラハのベルベデーレ(1535-60)やランツフートの王宮(1537起工)は城館建築の代表作であり,ローテンブルクやアウクスブルクにそびえる市庁舎の雄姿は台頭した市民階級を象徴する。とくに後者は,当地出身の建築家E.ホルによって完成された古典的なルネサンス建築である点で注目される。しかしその起工は,イタリアにバロック芸術が興隆し始める17世紀の初頭(1615)であった。16世紀末からは反宗教改革の気運に乗じて教会堂建築の造営活動も息を吹きかえす。ミュンヘンのザンクト・ミヒャエル教会(1582-97)は,ウォルフェンビュッテルWolfenbüttelのプロテスタントの聖母教会(1608起工)とともに,この時期南北ドイツの宗教界の様相を物語る。
ルネサンス美術

三十年戦争(1618-48)はドイツ全土を混乱に陥れ,芸術界がその荒廃と疲弊とからようやく回復の兆しをみせ始めるのは17世紀の後半になってからである。それはまず北のプロテスタント地域ではオランダからの,南のカトリック地域ではイタリアからの感化を受けて出発する。とりわけ,感覚的な視覚体験を重視するカトリック的宗教心情は,18世紀の,バイエルンからプラハへかけての南方の教会堂建築のなかに,そのもっとも輝かしいモニュメントを生み出す。

 フィッシャー・フォン・エルラハはバロック期が生んだ最初の地元出身の建築家の一人で,ボロミーニやグアリーニらのイタリア人の影響を受けながら,ウィーンのザンクト・カール・ボロメウス教会(1716起工)に古代の要素を取り入れた勇壮な形態を創造した。ドナウの河岸にそびえるメルク修道院(1702-36)はプランタウアーの設計になり,教会堂を中心に修道院の建築群を集めるこの時期の壮大な建築プランの典型をなす。城塞のような外観とは逆に,教会の内部は凹凸の多い曲面によって構成され,軽快な装飾で充満される。この傾向はノイマンのフィアツェーンハイリゲン(十四聖人)巡礼教会(1743-72)やビュルツブルク司教館(1744)およびヒルデブラントのウィーンのベルベデーレ宮殿(1714-24)を経て,やがてフランスから移入されたロカイユ装飾を多用する華麗な堂内を作り上げたキュビエの建築へといたる。彼のニュンフェンブルク宮殿のアマーリエンブルク(1734-39)やミュンヘンの王宮劇場(1750-53)は,D.ツィンマーマンのウィース巡礼教会(1746-54)とともにバロック末期ロココ様式の代表作である。同じころポツダムではクノーベルスドルフがサンスーシ宮殿(1744-47)造営に携わり,ドレスデンではペッペルマンMatthäus Daniel Pöppelmann(1662-1736)のツウィンガー宮殿(1711-22)が成立した。

 これらの建築はスタッコの彫刻や装飾ならびにフレスコ壁画で埋めつくされ,一大総合芸術を顕現させた。同じく諸芸術を総合したゴシック大聖堂を思い出させるが,そこではまだ諸ジャンルが各自の境界を保持していたのに対し,バロック建築ではすべてが融合し一つの幻想的なシンフォニーと化す。ミュンヘンのヨハン・ネポムーク教会(1734)やウェルテンブルクのベネディクト会修道院教会(1718)を造営したアザム兄弟にみるように,一人の作家のなかに建築家,彫刻家,画家が共存する芸術家のタイプは,したがってこのバロック時代に典型的に現れたものである。またM.ギュンターとI.ギュンター,同じくJ.B.ツィンマーマンとD.ツィンマーマンのように,共働した画家と彫刻家あるいは建築家とが兄弟であることもしばしばで,たとえまったく別人同士の手になったとしても,サンスーシ宮殿の正面やツウィンガー宮殿のパビリオンのごとく建築と彫刻とは相即不離の関係を持っている。
バロック美術 →ロココ美術

19世紀以降は種々の美術様式が交代あるいは並存して,統一的な時代様式概念をもっては把握できない複雑な様相を呈する。王公の貴族階級に支えられた18世紀後半のロココ美術はバロックの爛熟段階をなし,極度に洗練され,著しく感覚化した様式となる。このロココ美術は,もはやそれ自身のなかには次代への発展のエネルギーをもっていなかった。18世紀末フランスに革命が起こり,ナポレオンが出現すると,ヨーロッパの美術には堅実素朴な市民階級の美意識に基礎を置く古典主義が再興する(新古典主義)。ウィンケルマンの《古代美術史》(1764)はこの風潮に思想的指針を与えた。

 ドイツにおける古典主義の動向は,19世紀初頭のワインブレンナーFriedrich Weinbrenner(1766-1826)のカールスルーエ都市設計に早くも具体化し,ベルリンのシンケルとミュンヘンのクレンツェがこれを受け継ぐ。前者の手になるベルリンのシャウシュピールハウス(旧王立劇場。1818-21)や後者の記念堂〈ワルハラ〉(1847)は,ともにギリシアの円柱や破風を模した古代神殿風の建築である。古代への関心は,歴史的記念物や遺品への開眼を促し,種々の記念碑や博物館建設の気運が高まったのもこの世紀の特徴である。ミュンヘンの絵画館アルテ・ピナコテーク(1826-36)もクレンツェの設計になったもので,このほかザイドルGabriel von Seidl(1848-1913)のバイエルン国立博物館(1896-1900)やゼンパーのドレスデン国立絵画館(1846-52)が知られる。また歴史的関心は中世にまでも及び,19世紀初頭のロマン主義思想の流れを引いてケルンやウルムの大聖堂が完成され,ノイシュワンシュタイン城(E. リーデル,1868-86)やウィーンの奉献教会(H.vonフェルステル,1856-79)のようなロマネスクやゴシックを模した中世様式建築も造営された。この歴史主義とたもとを分かって新しい方向を模索したユーゲントシュティールの運動から世紀末のゼツェッシオン(分離派)が興り,やがて20世紀最大の建築家の一人グロピウスが登場する。1919年グロピウスの指導下にワイマールに創設された総合的な造形教育を行うバウハウスの理念は第2次大戦後のアメリカに受け入れられて,ミース・ファン・デル・ローエの建築とともに現代建築に大きな影響を与えることとなった。

 青年時代のゲーテがシュトラスブルク大聖堂の前でゴシック建築を賛美したのは,近代における中世発見に先鞭をつけるものであった。彼自身はその後古典主義へ傾いていったが,ティークやワッケンローダーらロマン派の文学者が出るにおよんで,中世は生き生きとよみがえる。ボアスレーSulpiz Boisserée(1783-1854)が偶然目にとめた一片の古絵画からドイツ中世の古絵画収集が始まり,今日見るアルテ・ピナコテークの基礎となったのは,よく知られている。19世紀初頭前後の絵画は,メングスやカルステンスらの古典主義よりも,オーバーベックやF.フォルのロマン主義によって彩られる。彼らはアカデミックな美術に反対して,ラファエロやデューラーに帰ることを唱え,ローマの修道院遺構に起居しながら,深い宗教的感情のなかで制作した(ナザレ派)。そして北方の2人の画家フリードリヒとルンゲの風景画と肖像画とにおいて,ロマン主義絵画はそのもっとも感動的な表現を見いだす。19世紀後半にはメンツェルのリアリズムが現れるが,ドイツの絵画はこのころから外国の影響を強く受け,ピロティKarl von Piloty(1826-1886)やシュピッツウェークはフランス美術から,フォイエルバハやマレーはイタリアの造形から感化され,リーバーマンやコリントは印象主義の流れを汲んで様式の多様化をもたらした。パリでフォービスムの登場のあった同じ1905年,ヘッケルやキルヒナーらがドレスデンで組織した〈ブリュッケ(橋)〉は,1911年カンディンスキーやマルクがミュンヘンで結成した〈ブラウエ・ライター(青騎士)〉とともに,ドイツ現代絵画の出発点であった。色彩と形態とによって自然や人間の内側の世界にある不可視な領域を描き出すことを目ざした両グループはともに表現主義の名で呼ばれ,その系譜はダダやシュルレアリスムを経て第2次世界大戦後のエルンストやマイスターマンGeorg Meistermann(1911- )にまで及んでいる。第1次大戦後には,現実を冷静に見つめて,社会の退廃を暴き,人間の不安や孤独を表現する新即物主義の画家(グロッス,ディックス,ベックマンら)の活動が見られた。しかし30年代のヒトラーによる〈退廃芸術〉の弾圧は芸術界の息の根を止め,戦後の美術はいわば白紙状態からの出発を余儀なくされた。亡命した作家たちを通してパリやニューヨークの美術動向が伝えられ,ゲッツKarl Otto Götz(1914- )やゾンダーボルクK.R.H.Sonderborg(1923- )らのアクション・ペインティングのほか,50年代にはシュルツェBernhard Schultze(1915- )やシューマッハーEmil Schumacher(1912- )らのアンフォルメルの画家が現れた。今日4年おきにカッセルで開催されるドクメンタ展は,ドイツを中心として世界の現代美術の新しい試みの場として注目されている。

 19世紀の彫刻は,建築や絵画におけるほどの盛況をみるにはいたらなかった。様式的には古典主義,ネオ・バロック,リアリズムと変遷しながらも,主題の点では19世紀を通じて記念碑や人物の肖像および墓碑が一般に好んで取り上げられた。ダンネッカーJohann Heinrich von Dannecker(1758-1841)の《シラー胸像》(1805-10)やシャドウGottfried Schadouw(1764-1850)の《マルク辺境伯の墓碑》(1788-91),ラウフChristian Rauch(1777-1857)の《フリードリヒ大王》(1839-51),画家としても知られるクリンガーの《ベートーベン像》(1899-1903)らにこれをみることができる。19世紀中葉ミケランジェロやベルニーニの作品から感化を受けたベガスReinhold Begas(1831-1911)が出たのちは,ヒルデブラントが再び厳格な古典主義の作風を確立して,ミュンヘンを中心に後世へ根強い影響を与えた。しかし20世紀になっても彫刻には建築や絵画に匹敵する隆盛期は訪れず,表現主義の流れを汲むレーンブルックWilhelm Lehmbruck(1881-1919)やバルラハ,コルビッツが出たにもかかわらず,その低調さは今日もなお克服されたとは言い難い。しかしこのような状況のなかでも,ハルトゥングKarl Hartung(1904-67)やハイリガーBernhard Heiliger(1915- ),クリッケNorbert Kricke(1922- )らの新しい造形の試みは注目に値する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ美術」の意味・わかりやすい解説

ドイツ美術
どいつびじゅつ

ゲルマン古美術

ゲルマン民族はもともと視覚の再現像にさほどの価値を認めない民族だったといわれる。現存のゲルマン古美術を見ても、そこに施されているのは先史時代の遊牧民が伝えた動物意匠を文様化した「組紐(くみひも)文」で、その魔的な迷路の世界は民族大移動期を経てきたこの民族の呪術(じゅじゅつ)的、情念的な心情を物語っている。『ホルンハウゼンの騎士石』(7世紀末、ハレ州立美術館)には、対象の簡潔な図式化と表出力豊かな記号性、および象徴的な本質把握が認められ、ラテン民族の感覚性とは対蹠(たいしょ)的なこの民族の精神性が特徴的にうかがわれる。

[野村太郎]

中世

ゲルマン民族に初めて異質な文化の光を投じたのは、カール大帝(在位768~814)であった。しかし、キリスト教の普及と古代文化の振興を軸とするカロリング朝にも、厳密な意味でのドイツ美術はまだ誕生せず、その成立は約1世紀後のオットー朝を待たねばならなかった。当時ケルンに造営された聖パンタレオン聖堂は双塔式正面で名高く、またヒルデスハイム司教ベルンバルトの建立した聖ミハエル聖堂も後世の教会建築の範となった。ベルンバルトの名を冠してよばれる『青銅扉』は、高浮彫りの空間表現に時代の進歩がうかがわれる。コンスタンツ湖上のライヒェナウ修道院の写本挿絵、マース川およびライン川流域の金属工芸もこの時期の収穫である。特筆すべきはケルン大聖堂の『大司教ゲロのキリスト磔刑(たっけい)像』で、木の丸彫りによる等身大のこの像には、肉体的苦痛の極限から精神の偉大さを導き出そうとする創意、醜もまた芸術的表現でありうるとする卓抜な造形思考が働いている。

 ドイツ・ロマネスクは、むしろ聖堂の内部空間に視線が注がれている。その先駆的な作例『大僧正ウェッティンの墓碑』(マクデブルク大聖堂)には、故人の偉大な人格を典型化する創意が読み取れる。この創意の奇抜な作例はブラウンシュワイク広場の当代唯一の野外独立彫刻『ライオン像』であるが、これはハインリヒ獅子(しし)公(1125―1195)が自ら命じてつくらせた象徴像である。

 ドイツにおけるゴシック建築の摂取は、時間をかけて段階的に行われた。最初はロマネスクの母胎に影響ない部分改築、ついで母胎の空間を保持した増築(マールブルクの聖エリザベート教会、トリアの聖母教会、ストラスブール大聖堂など)として行われ、最後にケルン大聖堂がアミアン大聖堂を範として造営に着手されたのは1248年である。その後ハルレンキルヘ(広間式教会堂)の発達もあって、聖堂の円柱を人間像のために借用する初期ゴシック彫刻の発想もドイツではあまり厳密ではなく、聖堂彫刻でありながら現世的な情感の漂うものが多い。代表的作例に『エクレシアとシナゴーグ』(ストラスブール大聖堂)、『マリアとエリザベツ』『騎士像』(バンベルク大聖堂)などがある。また、ナウムブルク大聖堂のマイスター作『エッケハルトとウタ像』は観念的肖像彫刻として知られる。

[野村太郎]

ルネサンス

ドイツの15、16世紀は、宗教改革と農民戦争の混乱期であるが、カール4世(在位1346~1379)ゆかりのプラハおよび都市同盟傘下の諸都市で新時代の吸収が行われる。この時代の美的表現の主役は板絵で、「ボヘミア画派」「ハンブルク画派」、そしてロッホナーStephan Loehner(1410/1415―1451)を中心とする「ケルン画派」などが知られる。ほかに、シュワーベンのムルチャーHans Multscher(1400ころ―1467)、南チロール(ティロル)のパッハーMichael Pacher(1435ころ―1498)、バーゼルのウィッツKonrad Witz(1400ころ―1445ころ)、彫刻ではシュトス、クラフト、リーメンシュナイダーがいる。また、ハウスブーフのマイスターHausbuchmeisterやションガウアーによる版画の発達も特筆される。

 ゴシックの色濃い15世紀に続いて、ドイツ絵画黄金の16世紀が始まる。重要な画家としては、二度のイタリア旅行でルネサンスを吸収し南北ヨーロッパの融合を果たしたデューラー、『イーゼンハイム祭壇画』一作で不滅の名を得ているグリューネワルト、ドナウ派のアルトドルファー、北ヨーロッパのビーナス像の画家クラナハ(大)、肖像画家ホルバイン(子)、明暗の画家バルドゥングの名があげられる。

[野村太郎]

バロック

この時期には建築のための装飾画の発達が目覚ましい。マニエリスム的なロッテンハンマーHans Rottenhammer(1564―1625)を先駆者とし、オーストリア・バロックを代表するロットマイルJohann Michael Rottmayr(1654―1730)、「南ドイツのフレスコの巨匠」といわれたアサム(兄)の名があげられる。しかし三十年戦争(1618~1648)による荒廃は、この時期以後長く才能ある美術家の国外流出を招来した。17世紀のエルスハイマー、18世紀後半のメングス、フューゼリらがそれである。なお、スイス生まれでドレスデンで制作したグラッフAnton Graff(1736―1813)は、ビーダーマイアー様式のリアリズムをみせている。

[野村太郎]

19世紀

名君フリードリヒ2世(在位1740~1786)以来、哲学、文学、音楽の各分野で躍進したドイツも、美術の分野では、ローマのサン・イシドロの廃寺にこもったナザレ派のように、なお才能の国外流出が続いた。この時期にドイツ美術の孤塁を守った第一人者は風景画家のカスパー・フリードリヒである。画家ルンゲPhillip Otto Runge(1777―1810)、詩人ティークおよびノバーリスらと親交のあった彼は、北ドイツの荒涼とした風景に悲劇的情感を盛ったロマン主義の画家として記憶される。この世紀の後半、現実主義を開拓した画家にメンツェル、理想主義的作風を示した画家にフォイエルバハとマレース、同じく彫刻家にヒルデブラントがいる。印象主義はリーバーマンによって移植されたが、ほぼ同時期にアール・ヌーボー(ドイツではユーゲントシュティル)も波及し、ウィーンのクリムト、ミュンヘンのシュトゥックがその画家として知られる。建築および工芸の分野では、1907年ドイツ工作連盟が組織された。

[野村太郎]

20世紀

二つの世界大戦を含む20世紀は、ドイツにとって未曽有(みぞう)の危機的時代であるが、この時代にドイツの造形精神はドイツ・ルネサンス期にも比肩する高揚をみせた。ノルウェーの画家ムンクに鼓舞された表現主義は、反自然主義的な20世紀初頭のヨーロッパ前衛美術運動の一翼を担った。ドレスデンの「ブリュッケ(橋)」、ベルリンの「シュトゥルム(嵐(あらし))」、ミュンヘンの「ブラウエ・ライター(青騎士)」が運動の母体で、おもな画家にはキルヒナー、ノルデ、ココシュカ、マルク、カンディンスキーらがおり、彫刻家にはバルラッハの名があげられる。第一次世界大戦後にベルリン、ハノーバー、ケルンに波及したダダの運動、およびそれに続く新即物主義の思潮のなかで活躍した美術家にはグロッス、ディクスOtto Dix(1891―1969)、シュビッタースKurt Schwitters(1887―1948)、エルンスト、アルプらがいる。また、1919年に建築家グロピウスによってワイマールに設立された「バウハウス」には、クレー、カンディンスキー、ファイニンガー、モホリ・ナギらが招かれて、美と機能との総合を追求した。

 以上の運動やそれに参加した美術家たちはナチスによって「退廃芸術家」として弾圧され、自由な芸術の火は消えた。しかし第二次世界大戦後、抽象表現主義の国際的な潮流に呼応するバウマイスターやシューマッハーの活躍で復興され、戦前にもまして活発に現代美術の思潮に寄与する諸グループや美術家たちを生んでいる。とくにジャンルの枠をこえて反芸術の理念を幅広く追求したボイスJoseph Beuys(1921―1986)、動く彫刻の分野に新生面をひらいたゼロ・グループのマックHeinz Mack(1931― )やピーネOtto Piene(1928―2014)、ネオ・エクスプレショニズム(新表現主義)の画家バーゼリッツGeorg Baselitz(1938― )らの活躍は特筆される。また写真リアリズムの画家リヒターGerhard Richter(1932― )、幻想の画家ヤンセンHorst Janssen(1929―1995)とブンダーリヒPaul Wunderlich(1927―2010)、人間像の画家アンテスHorst Antes(1936― )も国際的に注目されている。

[野村太郎]

『前川誠郎編著『世界美術大系18 ドイツ美術』(1962・講談社)』『野村太郎編著『原色世界の美術6 ドイツ美術の流れ』(1970・小学館)』『岡野Heinrich圭一著『ドイツ美術史散歩 古彫刻篇』(1992・専修大学出版局)』『同『遺跡・古建築篇』(1995・専修大学出版局)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ美術」の意味・わかりやすい解説

ドイツ美術
ドイツびじゅつ

ドイツ美術はカロリング朝にいたってその基礎がおかれる。それ以前は金属工芸作品にみるべきものがある。オットー1世治下 (在位 936~973) のモニュメンタルな美術はドイツ・ロマネスク美術の端緒を開いた。ゴシック美術はフランスより約1世紀遅れて始り,フランスの影響の強い聖堂が建てられ,彫刻は内面的力強さと個性的表現にすぐれていた。 14世紀にはパルラー一族が活躍した。 15~16世紀の後期ゴシックに入ると,ブロンズ彫刻の傑作が生れた。木彫,石彫で繊細な作品も出た。北方特有の祭壇彫刻も多い。絵画,版画,風景画でも新生面を開いた。ドイツ・ルネサンス美術はゴシック的性格が濃厚で,イタリア的な意味でのルネサンス様式は成立しなかった。彫刻ではフィッシャー,リーメンシュナイダーなど活躍したが,その本質はゴシック様式に近い。最も活況を呈したのはションガウアー,グリューネワルト,デューラー,クラナハ,アルトドルファー,ホルバインらによる絵画であった。三十年戦争による国土の荒廃は美術の沈滞を招いたが,17世紀末頃からバロック,ロココ美術が生れた。ロココの反動としての新古典主義は美術史家ウィンケルマンによりその理論的基礎を与えられ,彫刻家シャドー,ダンネッカー,画家メングス,グラフらを生んだ。 19世紀初頭ロマン主義の中心となったのは絵画で,特にフリードリヒは風景画芸術に新生面を開き,ルンゲは肖像画,寓意画の傑作を残した。ウィーンで結成され,ローマで活躍したナザレ派は復古的宗教画を試みた。 19世紀後半~20世紀では写実主義画家メンツェル,ライプル,印象主義のリーバーマン,スレフォークト,コリント,古典主義の A.フォイエルバハがあげられ,彫刻では新古典主義的な A.ヒルデブラント,世紀末のユーゲントシュティールは美術の各ジャンルに注目すべき成果をもたらし,20世紀モダニズムの先駆となった。 20世紀初頭,ドイツ絵画は青騎士派と「橋」を中心とする表現主義で代表される。マルク,ノルデ,キルヒナーらを生み,またベックマンも表現主義に近い。 1920年代にはディクス,グロッスらの新即物主義が社会批判的な傾向をみせ,版画家コルビッツがこれに加わった。 20世紀建築をリードしたドイツ建築家,特にグロピウスはワイマールの工芸学校をバウハウスとして再編成し,絵画,工芸などにも産業時代にふさわしい新理念と方法を掲げ,国際的にも大きな影響を与えた。 20世紀初めのドイツ彫刻はレーンブルック,バルラハ,コルベらを生んだが,絵画や建築に比べるとその影響力は弱かった。

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