ドゴール(読み)どごーる(英語表記)Charles de Gaulle

精選版 日本国語大辞典 「ドゴール」の意味・読み・例文・類語

ド‐ゴール

(Charles de Gaulle シャルル━) フランスの軍人、政治家。第一次世界大戦に参加。第二次世界大戦下の一九四〇年国防兼陸軍次官となる。フランス降伏後、ロンドンで自由フランス委員会を組織し本国の対独レジスタンスを指導、フランスの解放をもたらす。戦後、フランス国民連合党首となり、五八年組閣して第五共和政を樹立。同年大統領となり、六二年アルジェリア戦争を終結させた。六五年大統領に再選され、六九年まで在任。(一八九〇‐一九七〇

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デジタル大辞泉 「ドゴール」の意味・読み・例文・類語

ド‐ゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle)

[1890~1970]フランスの軍人・政治家。第18代大統領。1940年フランスの対ドイツ降伏後、ロンドンに自由フランス政府を樹立してレジスタンスを指導。解放後、共和国臨時政府主席。一時引退したが、1958年アルジェリア問題で危機に陥った際、挙国一致内閣で首相となり、第五共和制を発足させ、初代大統領に就任。米ソの国際関係の中でフランス独自の外交路線を追求した。→ポンピドゥー

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドゴール」の意味・わかりやすい解説

ドゴール
どごーる
Charles de Gaulle
(1890―1970)

フランスの軍人、政治家。1890年11月22日、北フランス、リールの由緒ある家系に生まれ、サン・シール陸軍士官学校を卒業。第一次世界大戦に従軍して何度か負傷し、ベルダン攻防戦では重傷を負って捕虜となり、ドイツに抑留された。大戦後ソビエト・ポーランド戦争に派遣され、赤軍と戦ったのち、帰国して陸軍大学で学んだ。1930年代初め最高国防軍事会議事務局長に任ぜられ、『職業的軍隊を目ざして』(1934)を著し、現代戦における機甲部隊の優位を説いて陸軍上層部や政治家に働きかけたが、前大戦における防衛側優位の教訓に固執するペタン、ウェーガンら陸軍首脳の迷妄を覚ますことはできなかった。

 第二次世界大戦の開幕に際して急造の機甲師団の指揮官に任ぜられ、臨時の准将に昇級させられた。1940年春のドイツ軍の侵攻に対し彼の戦車部隊は強力な反撃を加えたが大勢を覆すに至らず、その最中にレーノー内閣の陸軍次官に起用された。しかし政府内ではすでに即時休戦派が勢いを得、北アフリカでの抗戦継続を主張したドゴール孤立、逮捕される危険を察知してロンドンに亡命。同年6月18日、BBC放送からフランスに向けて歴史的な対独レジスタンスの呼びかけを行いロンドンに自由フランス委員会を設立するが、イギリス政府があいまいな承認を与えただけで、米ソを先頭とする列国は本土のペタン政権を正統政府とみなしていた。ペタン政権は彼に欠席裁判で反逆罪のかどで死刑を宣告した。

 1944年、解放されたフランスに帰国し、フランス共和国臨時政府の首班となり戦後の難局に立ち向かうが、既成政党が中心となって議会優位の第四共和政憲法が制定されると、1946年突然下野し、第四共和政そのものに敵対する「フランス人民連合」(RPF)を結成したが、意に任せず一時政界を引退した。

 1958年5月、アルジェリア独立に反対する欧州人入植者と現地軍の反乱から始まった混乱のなかで、コティ大統領は反乱側の要求をいれてドゴールを首相に任命した。ドゴールは国民投票(9月28日)での圧倒的支持を背景に、宿願である大統領中心の第五共和政を発足させ、同年12月、初代大統領に選出された。右翼の抵抗を抑えてアルジェリア独立承認をはじめとする非植民地化を推進し、第三世界の共感を得る一方、戦費の重圧から解放されたフランス経済のいっそうの近代化を推し進めた。

 しかし、この時期の彼の本領は軍事と外交、とりわけ後者にある。共産圏への接近、核兵器の開発、NATO(ナトー)軍事機構からのフランス軍の引き揚げ、イギリスのEEC(ヨーロッパ経済共同体)加盟拒否、中国承認、アメリカのベトナム介入反対など、フランスの自主独立の外交路線を強力に追求した。これら新政策の底を流れるものはヤルタ体制すなわち米ソ両国による世界の共同支配体制の拒否であり、歴代のフランス政府の政策と方向において異なるものではないが、フランスの国力に余る大戦略は国民生活には重圧ともなり、1968年5月、学生・労働者を中心とする一大反抗運動いわゆる五月革命を生んだ。彼は国民の革命への恐怖を利用してこの危機を一度は乗り切るが、翌1969年4月の地方制度・上院の改革についての国民投票に敗北し引退に追い込まれた。1970年11月9日死去。

[平瀬徹也]

『村上光彦・山崎庸一郎訳『ドゴール大戦回顧録』全6巻(1960~1966・みすず書房)』『A・ワース著、内山敏訳『ドゴール』(1967・紀伊國屋書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ドゴール」の意味・わかりやすい解説

ド・ゴール
Charles André Joseph Marie de Gaulle
生没年:1890-1970

フランスの軍人,政治家。リールの小貴族の家系に生まれる。1912年サン・シール士官学校卒業後,軍歴に入る。第1次世界大戦で重傷を負いドイツ軍の捕虜となったが,大戦終結により帰国,当時ロシア革命政府と戦争状態に入ったポーランド軍に従軍した。21年サン・シール士官学校で軍事史を教え,翌年陸軍学校に入る。25年ペタン元帥の軍務室に入り,以後軍歴を重ねる一方,軍事理論研究に取り組み,とくに当時フランス陸軍が砲線に頼る防衛戦重視に傾いていたのに対し,機械化部隊による機動戦の意義を説く独自の見解を示した。第2次世界大戦開始後,40年5月代将となり,6月5日ポール・レノー内閣の陸軍政務次官となったが,16日レノー内閣は総辞職し,フランスはドイツ軍に降伏した(6月22日休戦条約調印)。6月18日,ド・ゴールは亡命先のロンドンよりフランス国民に向けて抗戦継続を放送で訴え,この放送とド・ゴールの名は,その後ドイツと戦い,抵抗するフランスを象徴するものとなった。ロンドンにおいてド・ゴールは自由フランス軍を組織し,連合軍に参加する一方,フランス国内のレジスタンス勢力の結集に努めた。連合軍による北アフリカ解放後の43年6月,アルジェでフランス国民解放委員会を組織,次いで44年6月2日,これをフランス共和国臨時政府に改組,その首相となる。こうしてド・ゴールは8月25日のパリ解放とともに国民解放の英雄としてパリに帰還,戦後フランスの最高の指導者として登場することになる。しかし,戦後体制のあり方をめぐって共産党をはじめ諸党と対立,46年1月首相の地位を退き,47年フランス国民連合を組織したが,53年これを解散,政界から引退した。

 58年5月,アルジェリア在留軍などの反乱の危機に際して,国家の統一と威信を説き再登場,6月1日首相となって全権を掌握し,憲法を国民投票(9月28日)に訴えて改正,第五共和政を発足させ,その最初の大統領に選ばれた(12月21日)。以後10年の間,大統領として国政を担い,しばしば国民投票によって直接信を問う方策をとりながら,国家の指導性を強め,産業構造の高度化を目ざす経済改革を実施した。アルジェリア戦争を62年3月のエビアン協定により終結させ,他方,核兵器開発に乗り出し,60年に最初の核実験を行ったり,64年1月中国を承認するなど,米ソ二大国の間でフランスの独自の地位を主張する外交政策を展開した。しかし,68年に学生を中心に起こったいわゆる五月革命は,高度に管理化されてゆく社会のあり方をはじめド・ゴール体制のはらんだ多くの矛盾を表面にさらけ出し,69年4月,地方制度改革と上院改組の国民投票に敗れてド・ゴールは大統領を辞任した(4月28日)。引退後は回想録を執筆したりしていたが,70年11月9日死去した。著書に,《剣の刃》(1932),《フランスとその軍隊》(1938),《ド・ゴール大戦回顧録》3巻(1954-59),《希望の回想》(1970)などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドゴール」の意味・わかりやすい解説

ドゴール
Gaulle, Charles André Joseph Marie de

[生]1890.11.22. リール
[没]1970.11.9. コロンベレドゥゼグリーズ
フランスの軍人,政治家。 1912年陸軍士官学校卒業。 13年陸軍少尉。 1930年代に近代戦略を説く数冊の著書によって頭角を現した。第2次世界大戦勃発時は陸軍次官,40年フランスの降伏後はロンドンに亡命して自由フランス運動の指導者となった。パリ解放後,臨時政府の首班に指名されたが,46年辞任。 47年にフランス国民連合 RPFを結成したが 53年解散し,政界を引退。 58年6月アルジェリア問題危機に際し政権の座に復帰,第五共和政を発足させ,12月 21日大統領となり,69年国民投票に敗れるまで在職。外交的には独自の核抑止政策,対米従属の拒否,主権を維持したヨーロッパ統合などのナショナリズム,民族独立運動への理解,独仏協調,共産圏との接触 (中国承認) などの現実主義,内政的には強力な執行権力,テクノクラット政治などがその特色であった。主著『大戦回顧録』 Mémoires de guerre (1954~59) ,"Mémoires d'espoir" (70) 。

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世界大百科事典(旧版)内のドゴールの言及

【アルジェリア戦争】より

…58年5月フランス軍隊の反乱により,ついに第四共和政が崩壊した。(3)第五共和政を成立させたド・ゴールは,アルジェリア政策を明確にせず弾圧と懐柔によってフランスの権益を維持する道を探ろうとした。これに対してFLNは,フェルハト・アッバースFerhat ‘Abbāsを首班とするアルジェリア共和国臨時政府をつくり,国際世論への働きかけを強めたが,ALNの主力兵力は国外に退き,武力解放の見通しは立たなかった。…

【核戦略】より


[フランスの核戦略]
 フランスの核戦力開発は,アメリカとの協力のもとで核軍備を進めたイギリスとは異なって,一貫して独自の道を歩んだ。特に1958年6月,ド・ゴール政権が成立したのちは,独自の核武装を求めた。1960年2月,サハラ砂漠で最初の核実験に成功,同年12月には核武装法の成立を見た。…

【ゴーリスム】より

…ド・ゴール主義の意。狭義にはフランスのド・ゴールの政治理念をさすが,さらに,ド・ゴールを支持した人びとの思想や行動,あるいはド・ゴールによって実現された政治体制や政策のあり方をさすこともあり,これらをあわせて一般にゴーリスムという場合が多い。…

【第五共和政】より

…58年5月アルジェリア戦争のさなかに軍部や植民者の反乱によって生じた第四共和政の危機がその成立の端緒であった。この危機の中で,第2次世界大戦における国民的結集のシンボルであったド・ゴールは,期待を受けて再登場し,6月1日首相に就任するや自己の指導力強化と憲法改正を目ざすとともに,反乱勢力に理解を示す姿勢をとって事態を掌握し,反乱を鎮静化させた。新憲法は9月28日国民投票で投票総数の79%の支持を得て承認され,10月4日公布された。…

【第四共和政】より

…フランスで第2次世界大戦後に組織された共和政体。大戦下の1944年6月,連合軍に加わって戦ったド・ゴール将軍の権威とフランス国内のレジスタンス勢力の結集を背景に,ド・ゴールを首相とするフランス共和国臨時政府が組織されたが,フランス解放後の45年10月21日,戦後初の国民議会選挙が行われ,また同時に実施された国民投票により,この議会が新しい政体を定める憲法制定議会たることが承認された。なお,この選挙で初めての婦人参政権が実現している。…

【デタント】より

…デタントはフランス語で本来〈弛めるdétendre〉という行為と,その結果生まれた〈弛んだ〉という状態とを意味する。
[デタントの多義性]
 1962年10月のキューバ危機を契機に,フランスのド・ゴール大統領が東西関係において達成されるべき発展過程を,デタント,アンタントentente(相互理解),コーペラシオンcooperation(協力)と表現して以来,広く用いられるようになった。一般的には,この言葉は紛争解決における非軍事的形態の使用ならびに相反する目標と利害の平和的調整の探究によって特徴づけられる東西関係の一定の状態を表すのに使われる。…

【ビシー体制】より

…また政府の外では,J.ドリオやM.デアらの諸組織が活動し,とくに北部の占領地区で,ナチズムやそれの唱える〈ヨーロッパ新秩序〉の理念に接近し,ビシー政府の政策を伝統主義的なものとみなしてファシズム化の徹底を主張したが,政府のこれらに対する指導力は乏しかった。しかも他方,すでに40年6月の敗北の当時からロンドンで抗戦継続を訴えていたド・ゴール将軍がビシー政府の権威を否定し,〈自由フランス〉の名でフランス国民の結集を呼びかけ,しだいにその権威を増大させていった。当時はド・ゴールの名は国内においてほとんど知られず,圧倒的多数の人びとは敗戦による混乱の中でペタンに救国の期待をかけていたとみなされる。…

【フランス】より

… フランスでは,イギリスやドイツに比べ伝統的に諸政党の分立の傾向が強く,左翼-右翼の対立構図をとりながらも,二大政党制をなしているとはいえない。左翼では社会党と共産党,右翼では共和国連合(旧ド・ゴール派),フランス民主連合(中道)等が並立しており,政党間のかけひきやその都度の連携も複雑である。以前はこの政党分立が,頻繁な離合集散,内閣の交代を結果し,政治の不安定をもたらしていたが,第五共和政の下では7年間の長い任期をもつ,より強い権限をもつ大統領の下で,政治構造は比較的安定するようになった。…

【レジスタンス】より

…広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。 フランス語のこの言葉が上のように一般化して用いられるようになった端緒は,フランス降伏後の1940年6月18日,ロンドンに逃れたド・ゴールが,BBC放送を通じてフランス国民に呼びかけた〈フランスのレジスタンスの炎は消え去ってはならないし,また消えることはないであろう〉という言葉にあるとされている。また,その年の暮れには占領下のパリで,のちに〈人類博物館グループ〉として知られることになる知識人グループ(ボリス・ビルデ,ポール・リベら)が,《レジスタンス》と題する非合法の新聞を発行し,この言葉を自覚的に運動の表現として用いている。…

※「ドゴール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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