スペイン北部,ピレネー山脈南西部の地方。現在のナバラ県と一致する。面積1万0421km2,人口59万3472(2005)。主都はパンプロナ。パンプロナ盆地を中心にバスターン,ロンカル,ロンセスバリェス,アメスコアの各峡谷と丘陵からなり,エブロ川とその支流の南側に沃地がある。山地では林業,丘陵地では牛,馬,羊の飼育に加えブドウ栽培がみられる。平地では小麦,オリーブ,果樹栽培が行われ,化学,製紙,皮革,食品の各工業がある。
歴史的には,ナバラの中心であるパンプロナはローマ支配時代から注目され,次いで西ゴート族,イスラム教徒に占領された。777年,フランクのカール大帝の侵入後,その辺境領となったが,9世紀末ごろから独立し,ピレネー山脈の南北にまたがる王国を形成した。西ヨーロッパ・キリスト教世界とイベリア半島を結ぶ商業・巡礼路が同国を通っていたため,11世紀のナバラはヨーロッパの新しい息吹きを受け入れ,イベリア半島の国々へ伝えた。13世紀から15世紀にかけてはフランスのシャンパーニュ,エブルー,フォアの3伯家が順次王位を継承した。16世紀初め,カトリック王フェルナンド2世がナバラ王国を征服し,ピレネーの南側はカスティリャに併合され,地方諸特権のみが付与された。一方,ピレネー北側のフォア伯領バス・ナバールは,1589年,アンリ・ド・ナバールがアンリ4世としてフランス王に即位するとフランスに合併された。19世紀半ばカルリスタ戦争勃発で,ナバラはエステリャを中心にカルリスタの伝統主義的カトリック勢力の拠点となった。第1次戦争の終結後,1841年にすべての地方特権が廃止されたが,69年協定で旧慣習法の復活を得,名目上の旧ナバラ王国の政治体制を維持した(フォラール体制)。1936年からのスペイン内乱では反乱軍側の一つの拠点となり,国民戦線を支援した。その後のフランコ体制下では工業化政策によって旧来の伝統的農業社会にも労働不安が波及し,左翼勢力も伸張した。西側のバスク圏内ではバスク地方自治要求運動が活発化し,バスクとの併合問題がもち上がり,重大問題化している。
→ナバラ王国 →バスク
執筆者:フアン・ソペーニャ
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…16世紀以降に創作された伝承文学,中世の神秘を想起させる田園詩,滑歩(パ・グリセ),デカジェ,ロン・ド・ジャンブなどの組合せで,大地や宇宙との接触をリズム感で表現した民族舞踊,中世のポーム球戯から生まれた,テニスのように壁に向かって敵味方が打ち合うペロタ球戯(ハイアライ)など,文化面でも豊かであり,ベレー帽はバスク固有の風俗としてあまりにも有名である。【石原 照敏】
【スペイン・バスク】
スペイン側のバスク地方はギプスコアGuipúzcoa,ビスカヤVizcaya,アラバAlava,ナバラNavarraの4県からなる。面積1万7675km2,人口267万(1995)。…
※「ナバラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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