ニカイア公会議(読み)にかいあこうかいぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニカイア公会議」の意味・わかりやすい解説

ニカイア公会議
にかいあこうかいぎ

小アジアのニカイアNicaea(現イスニク)で開かれた二度のキリスト教会の総会議ニケーア公会議ともいう。

秀村欣二

第1回

325年コンスタンティヌス1世(大帝)によって招集され、アリウス論争を処理するために開かれた。参会者は318名とするのが通説だがつまびらかでない。議事は三派に分けて進められた。左翼はアリウス派で、アリウスは長老司教でないため投票権がなく、テオナス、セクンドゥスの2人のエジプト人の司教などが代表者となった。右翼は正統的伝統派で、アレクサンドリアの司教アレクサンドロスが代表し、その輩下に若い執事アタナシウスがおり、強烈にアリウス派に反対した。中間派は多数だが、主体的立場は少なかった。この公会議においてニカイア信条が制定され、キリストを父なる神と同質(ホモウシオス)とする語が挿入され、子は無から生じ、存しなかったときがあるとするアリウス説が退けられ、この信条への署名を拒否したテオナスとセクンドゥスはアリウスとともに追放された。なおこの公会議で、復活祭の日を春分の次の満月の後の最初の日曜日とすることが定められた。

[秀村欣二]

第2回

東西両教会が認めた最後(第7回)の公会議で、画像論争を決着させるため、787年に開かれた。この会議で、キリストの画像だけでなく、マリア天使聖人の画像をも是認、画像を崇(あが)めるのは像を通してその原像を崇めるものとして画像礼拝が回復され、画像破壊論者は異端とみなされた。

[秀村欣二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニカイア公会議」の意味・わかりやすい解説

ニカイア公会議
ニカイアこうかいぎ
Councils of Nicaea

ビチュニアのニカイアで開催された2回の公会議。 (1) 第1回  325年皇帝コンスタンチヌス1世が 220人余の司教を各地から集めて開いた第1回公会議。教皇シルウェステル1世は代理を派遣した。三位一体をめぐる論争で台頭した聖子従属説,なかんずくアリウス派を異端とし,父と子の同質を明言したニカイア信条採択。また 20ヵ条に及ぶカノンは,迫害時代に教会を捨てた者の帰正,司祭の婚姻問題,金貸しの禁止,エジプトやリビアなどにおけるアレクサンドリア司教の優越的位置などを規定した。 (2) 第2回 コンスタンチノープル総大司教タラシウスの求めに応じ,摂政位にあった皇后イレネが,787年に開催した第7回公会議。教皇ハドリアヌス1世は使節を派遣。 726年皇帝レオ3世の始めた聖画像破壊が主要議題であり,礼拝は神のみに,しかし聖画像には崇敬が認められた。この決定は不完全なラテン訳によって礼拝と崇敬の区別が立てられずに西方に伝えられたため,カルル大帝をはじめこれを否定する勢力がのちにまで残った。ほかに 21ヵ条のカノンを採択。

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