ネパール(英語表記)Nepal

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精選版 日本国語大辞典 「ネパール」の意味・読み・例文・類語

ネパール

(Nepál) インドと、中国のチベット自治区との間にある王国。中部ヒマラヤの南斜面を占め、北東側には標高八〇〇〇メートル以上の高峰が連なる。一三~一八世紀にモンゴル人種系のマッラ王朝が栄えていたが、一七六九年以来アーリア人種系のグルカ族の王朝が支配。首都カトマンズ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ネパール」の意味・わかりやすい解説

ネパール
Nepal

基本情報
正式名称=ネパール連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Nepal 
面積=14万7181km2 
人口(2011)=2662万人 
首都=カトマンズKāthmāndu(日本との時差=-3.5時間) 
主要言語=ネパール語 
通貨=ネパール・ルピーNepalese Rupee

インドと中国のチベット自治区の間(北緯26°20′~30°15′,東経80°05′~88°13′)に位置する王国。19世紀以来鎖国していたが,1951年の王政復古後開国し,55年には国連に加盟した。経済面では,国土の大半がヒマラヤ山脈に含まれる山地であり,また地下資源に恵まれず,海に面していないなど,発展上の障害が多い。

国が東西に長いため東部では年間降雨量が2000mm近くの場所があるのに対し,西部では1000mmを割り,またモンスーンのもたらす雨がほとんどヒマラヤ山脈南面に降るなど,乾湿の地域差が大きい。同様に大きいのが高度差で,ヒマラヤ山脈の最高所は8000mを超え,一方,南のタライでは60~200m程度となる。主要水系には東からコシ,ガンダキ,カルナリがあり,チベットや北ネパールからヒマラヤを切る形で南流し,ヒマラヤ南面に東西に広がるマハーバーラト山脈(最高約3000m)地域で東西に流れ,南部のシワリク丘陵を切ってまた南流する。

 タライ(幅約15~45km)およびシワリク丘陵北の内部タライ(標高500~600m)は亜熱帯で,以前はサールを主とした森林が多く,マラリアがはびこっていたが,今日ではその撲滅も進み開拓も大幅になされ,ネパールの穀倉となっている。マハーバーラト山脈は多く照葉樹林帯で,山地低部をおもな居住地とするネパール的ヒンドゥー教徒,山地中高部に住むチベット・ビルマ語系諸語を母語とする諸民族などネパール固有の住民の根拠地となり,低部(標高1800~1900m以下)では水稲栽培,シイ類などが,また中高部(3000m程度まで)では麦類と雑穀の栽培,カシ類などが見られる。その上に冷温帯性森林,亜寒帯性針葉樹林が続き,標高3800~4000mで森林限界となるが,3000m以上からこのあたりまではチベット系住民が定住集落を営み,麦類,雑穀などを栽培している。それ以上はビャクシン(イブキ)類など低木や高山草原が約6000mまで見られ,ヒマラヤの氷雪地帯に続いている。

住民は大別して,(1)-(a)山地低部をおもな居住地とするネパール的ヒンドゥー教徒(全人口の約50%),(1)-(b)南部のタライに住む北インド系住民(約25%)および土着民タルー(約4%),(2)-(a)山地中高部に住むチベット・ビルマ系の諸語を母語とする諸民族(約20%),(2)-(b)チベット系住民(1%以下),その他に分けられる。言語的には(1)の人々の母語はインド・ヨーロッパ語系で,(1)-(a)の人々はネパール語,(1)-(b)の人々はマイティリー,ボジュプリー,アワディーなどのヒンディー語の方言を話す(ただしタルー語の系統については疑問点が多い)。一方,(2)に属する人々の母語はチベット・ビルマ語系で,その中に数十の民族の言語が含まれる。代表的言語名(=民族名)は(2)-(a)では,東からリンブー,ライ(ライ・リンブー),タマンネワールグルンマガルなど,(2)-(b)ではチベット,シェルパなどで,人口は数万から数十万である。このほか,わずか数家族という言語集団も見られる。

 宗教は(1)の人々(および仏教徒((2)-(a))中のネワールも含む)は多くヒンドゥー的で,カースト社会を成す。ただし,(1)-(a)の人々の間では中間の地位の諸カーストが欠落している。(2)-(b)の人々はチベット仏教ラマ教)を奉じ,一方,(2)-(a)の人々はそれぞれの土着信仰をもつが,南部の住民にはヒンドゥー教,カースト制の,北部の住民にはチベット仏教の影響が強い。現在の王政の中心は(1)-(a)の人々で国語はネパール語であるが,首都では主要住民ネワールが国語を母語としないという微妙な状況があらわれている。

ネパール古代史は近年かなり研究が進んだがあいまいな部分も多い。14世紀以降に書かれた王朝譜《バンシャバリーVaṃśāvalī》は古代にゴパーラやキラータなどの王朝があったとするが確証はない。確実なのはリッチャビ王朝からである。これはその始まりも終りも明らかでないが,マーナデーバMānadeva王の碑文から464年には存在していたことがわかる。この王朝が力を失うのは8世紀ころであるが,それまで使われていたものとは異なる新しい暦の第1年目にあたる西暦879年に史上の転換点をおく説が強い。以後も1200年まで〈デーバDeva〉の名のつく王の支配が続く。この時期を便宜的にタクリThakurī王朝と一括する研究者もあるが,中央権力は弱化し,資料は少なく,不明な点が多い。リッチャビ王朝下ではすでに,灌漑を伴う農業や南北の交易が行われ,大都城があり,貨幣が流通し,工芸が行われ,ヒンドゥー教,大乗,小乗の仏教があった。宗教や王の名,サンスクリット主体の碑文の言語,文字からわかるように,この時代インドからの影響は大きかったが,一方,6世紀ころからはチベットとの関係も強まった。

 次のマッラMalla王朝は1200年に初めてその確証が現れ,1768・69年まで続くが,実は異なる3系統の王朝から成る。この時代は建築,工芸などネワール文化が開花した時代であるが,一方,インドのムスリム(イスラム教徒)勢力による侵略,破壊や飢饉もあった。宮廷ではムスリムの手から逃れたブラーマン(バラモン)が重用され,社会,文化のヒンドゥー色が強まった。とくにカースト制を法制化し,度量衡,税制などを整えたとされるジャヤスティティ・マッラ王Jayasthiti Malla(在位1382-95)は有名である。一方,古くにインドから伝わった仏教は密教色を強め,ネワール独特のものとなってゆく。15世紀後半には王国が兄弟間に分割されるという事態が起こり,それ以後カトマンズ盆地およびその周辺で分立した王国は互いに争い,力を弱めていった。

 カトマンズ周辺以外では,11世紀から14世紀に西ネパールのカルナリ川流域で栄えたヒンドゥー系のカサ勢力のマッラ王朝が有名で,インド,チベット間の中継交易を行い,一時は西チベットからガルワールに勢力を広げていた。その他14~16世紀の中央ネパールのセーン王国なども有力であったが,18世紀中葉には西ネパールに数十の勢力の割拠状態が見られた。これらの小勢力中から頭角を現したのがプリトゥビ・ナラヤン・シャハ王Prithvī Nārāyaṇ Śāhに率いられたグルカ(ゴルカ)勢力である。この勢力は1768・69年にカトマンズを征服し,今日に至るまで続くシャハ王朝ゴルカ王朝)を建てた。それ以降も拡大は続けられ,一時その版図は西は現インド領のクマオン,ガルワール,東はシッキムに及んだ。この膨張は南北にも及び,18世紀後半にはチベットに侵入するが,これは1792年の清朝の反撃を誘い,以来1912年までネパールは清朝への朝貢を行った。南および西への膨張は,その頃インドで拡大を続けていたイギリス東インド会社を刺激し,1814-16年,イギリス植民地軍がネパールに進攻した。いわゆるグルカ戦争ネパール戦争)である。これに敗れたネパールは領土割譲,イギリス駐在官の受入れを余儀なくされたが,善戦したために植民地として併合されることなく独立を保った。内政面では内紛も多かったが,46年,政敵を大量虐殺したジャン・バハドゥール・ラナJang Bahādūr Rāṇāが王を有名無実なものとして実権を握り,以降約100年間のラナ時代の基礎を築いた。この体制下ではラナ一族がビルタbirtāという形の非課税地を大量に所有し,また文武の高官を独占した。対外的には親英政策が取られ,また20世紀前半には西欧にならっての制度改正,施設整備も行われた。

 1951年,インド独立の影響をも受けた反ラナ勢力により,トリブバン王Tribhuvanの王政復古という形でラナ専制政治が終わり,政党政治が始まった。50年代は政権争い,内閣の交替が激しく政権は安定しなかったが,59年には新憲法が発布され,総選挙が行われ,ネパール国民会議派のB.P.コイララが首相となった。しかし,父王死亡の後1955年から王権を継いでいたマヘンドラ王は60年末陸軍を動員し首相,大臣などを逮捕して全権を掌握,政党政治を廃止し,〈パンチャーヤット民主主義〉体制をしいた。72年マヘンドラ王が死去し,息子のビレンドラBirendraが王位を継承した。1990年の〈民主化〉による新憲法では主権在民が明記され,政党政治が復活し,国王は象徴とされたが,なお非常事態宣言を発するなどの権限も保持している。

1962年憲法の下では,間接選挙制の国会(国会パンチャーヤット)と地方の各レベルの行政執行組織(地方パンチャーヤット)が立法・行政の軸とされたが,政党は禁止され,任命制の首長が力を持ち,最終的には国王に権力が集中していた。その体制下で,農地改革,小作権保護,経済開発など,ある程度の進歩はあったものの,国民の不満も高まった。79~80年には反政府運動が高まったが,国民投票でからくもパンチャーヤット制存続が決まり,国会議員や首相の選出方法の手直しを含む,憲法等の部分改正によって政府は一時窮地を脱した。

 1989年にはネパール・中国関係を不満としたインドが,ネパールとの通商・通過条約の更新を拒否し,事実上の経済封鎖を行うという事態が起き,困窮した国民の不満が政府に向けられた。90年2月以降,この反政府・民主化運動が激化し,デモやストライキが続発,警官隊の発砲で多数の死傷者が出た。同年4月,ビレンドラ国王はパンチャーヤット制の廃止,政党活動禁止令の解除などの譲歩をし,非合法化されていたネパール会議派のK.P.バッタライを首相とする新内閣が発足した。同年11月,新憲法が発布され,ネパールを多民族・多言語国家とする規定も盛り込まれた。91年,新憲法下初の総選挙でネパール会議派が多数派となり,G.P.コイララが首相となった。94年の第2回総選挙ではネパール共産党(UML)が勝利し,M.アディカリが首班となったが,95年9月の不信任案可決により退き,ネパール会議派のS.B.デウバが国民民主党,友愛党との連立内閣を組織した。しかしこの政権も97年3月,信任案の否決という形で倒れ,少数派の国民民主党(チャンド派)のL.B.チャンドが首相に任命され,UML,友愛党との連立で組閣した。これは,パンチャーヤット期の元首相が共産党(UMLゴータム派)と組み,閣僚の過半数を後者が占めるという内閣である。このように〈民主化〉以後のネパールの政局は大きな振幅をもって変わっており,安定化にはまだ時間がかかるものと思われる。

ネパール経済の中心は自給的な農業で,人口の8割以上が大なり小なり農業に携わっている。農業はGDP(国内総生産)の51%を占めるが,その生産物,生産様式は地域,民族により多様である。また多くの地域では畜力,肥料,動物タンパクの摂取の面から牛,水牛,羊,ヤギなどの家畜飼育が重要である。一方,斜面の耕地化,木材・薪など飼料としての木の利用により,森林資源の枯渇の問題も起こっている。農業生産の増加は,改良品種の導入,灌漑の普及などの面で進められているが,山地部では頭打ちで,またタライの開発にも限度があり,全体として生産増加を人口増加が打ち消す形になっている。経済開発計画によって道路建設,灌漑,発電,通信施設などの面で一定の成果が現れているが,なお生産・雇用機会の拡大,国民の基本的必要の充足が強調されている。開発予算は国家予算の約60%を占めるが,その60%は国外援助によっている。工業はその促進に力が入れられているものの未発達で,家内工業,製造業(ジュート,木材,タバコ,マッチなど)を合わせてもGDPの10%程度にすぎない。輸出産品の代表は,米,ジュートなどタライの農産物であるが,米に関しては,交通上の障害からそれが必要な山地部に回らず,インドに流出してしまうという問題がある。外貨獲得にとってヒマラヤなどを対象とする観光は有望な産業で,近年の伸びが著しいが,交通機関,宿泊施設などの整備,サービスの充実に問題が残る。またイギリス軍,インド軍への〈グルカ兵〉としての出稼ぎや,インドなど近隣諸国への出稼ぎも大きな貿易外収入源となっているが,その結果,山地の村々には成人男子労働力が極端に少なくなっている例も見られる。

 交通は大半の地域では徒歩に頼らざるをえないが,1950年代以来,カトマンズとタライ,チベットを結ぶ自動車道,タライの東西自動車道,山地部の町ポカラとカトマンズおよびタライを結ぶ舗装道路などが建設されている。また首都と国内,国外の主要地域は空路によって結ばれている。

ネパールは多民族,多カースト国家である。その中で政治的に最も有力なのが,ネパール語を母語とする人々([住民,言語]の項の(1)-(a)に属す)の中の高位のカーストであるバウンBāhun(バラモン),チェトリChetrī(クシャトリヤのネパール語なまり)などである。後者には国王も含まれる。また従来からこのグループに協力的だったマガル,グルンなどの人々の中には,官,軍の高官も見られる。一方,ネワールは首都を根拠地とし,商業面,文化面で隠然たる力をもっている。さらにタライのインド系住民は,経済,社会,言語,教育などの面でのインド側との結びつきが強く,政治的に微妙な存在となる可能性を宿している。ネパール政府は1963年から法制上はカースト差別を廃止し,低いカーストの人をも大臣にするなどの施策を採っている。またネパールのカースト・システム自体,インドのそれと比べて柔軟で許容度が高く,民族間,カースト間の通婚も少なくない。しかし一方,民族差がカースト差のように上下の序列の意識を伴ってとらえられているなどの面もあり,社会を考える場合,いまだに民族差とならんでカースト差を無視できない状態である。

 学校教育の普及には大きな力が注がれている。学校制度は82年から小学校5年(義務教育で無料),中学校2年,高校3年,大学4年となった。大学は以前は独立していた国内のいろいろな単科大学(カレッジ)が,キャンパスの名で,すべてトリブバンTribhuvan大学の管轄下に置かれている。初等教育の就学率は1951年の就学年齢人口の1%という数字から見れば急速に増加し,65%近くに達しているが,資格のある教員の不足,中途落伍者の多さなど,質の面では問題がある。また高校までの10年の学校教育の終了証明であるSLC(School Leaving Certificate)を得る者は受験者の約1/3にすぎず,それに達しない多くの者は(政府の施策もあり)官公庁への就職の道を実質上閉ざされている。

 保健・衛生面は後れており,天然痘,マラリアなどの撲滅こそ進んだが,病院,医者,看護婦などは圧倒的に不足し,また都市に偏在している。そこで政府は,速成の医療助手を養成して地方に駐在させるなどの応急的な施策を講じている。その他,乳幼児死亡率の高さ,便所の普及率の低さなど問題は多い。また一方,人口増加抑制も大問題である。総じて社会保障は未発達で,恵まれない者の世話は地域,家庭に任されている面が多い。

ネパールには伝統文明の影響を受け独自の文化を育ててきた民族から,文明との接触が非常に少なく,狩猟・採集生活のなごりをとどめている人々までおり,その文化の様相は多様である。西欧文明を別とすれば,ネパールと関係の深い文明はインド文明とチベット文明で,どちらも大宗教,文字,都市を伴い,宗教色の強い文明を培ってきた。しかしネパールはどちらの中心からも離れ,また地形面から交通の制約も大きい。そのため,それらの文明との相互関係のあり方は地域,民族によって大幅に異なり,また一方では土着的要素が全国にわたって色濃く見られる。

 北インド系住民([住民,言語]の項の(1)-(b)),チベット系住民(同じく(2)-(b))は,それぞれ辺境に位置してはいるが,インド文明圏,チベット文明圏にそのまま含まれる。チベット圏ではチベット仏教の僧院・仏塔建築,仏像,曼荼羅や神仏を描いた掛軸状のタンカや壁画,経典中の絵画などが見られ,また年間数十もある儀礼の機会にはさまざまな楽器を伴う音楽や仮面踊りなどの芸能が見られる。一生のうち一時期僧院に入る人は多く,文字を読める男性は少なくないが,創作文学活動は現在ほとんど見られない。一方,北インド系住民の住むタライにはルンビニーなどの仏跡,ジャナクプルのヒンドゥー寺院群,あるいは民家の壁画や浮彫などもあるが,新しい開拓地が多く,目ぼしい建築や美術は少ない。また文学もインド側の活動に依存している。

 〈ネパール的〉といいうる文化はおもに北部と南部の中間の山地部の住民([住民,言語]の項の(1)-(a),(2)-(a))の間に見られる。ネパール語を母語とする人々(同じく(1)-(a))は,20世紀中葉まではヒンドゥー法を踏まえた法律をもち軍事力にすぐれ,現ネパール王国をつくり上げたが,都市文化とは縁が薄く,ネワールの根拠地カトマンズをそのまま首都とし,宮殿建築などにもネワール様式や西欧式を採用した。一方,14世紀から文字化されたネパール語の影響力は大きく,広報,通信,教育などに広く使われるほか,18世紀以来,詩を中心に,小説,随筆,戯曲などの創作が現れ,ネパール語を母語としない人々も含む識字層において,かなりの隆盛を見ている。

 チベット・ビルマ語系の諸民族(同じく(2)-(a))は自らの文字をもたず,都市も営んでこなかった。文明との接触の度合の差異が著しいのはこのグループの人々である。ただカトマンズ盆地のネワールは例外で,古くからインド文明を取り入れ都市をつくり,文字をもち,ヒンドゥー教,仏教を混交させ,独特の文芸を発展させた。建築,彫刻,絵画,金属細工を含む工芸など〈ネパールの美術〉として取り上げられるのは,ほとんどがネワールのものである。またネワール文学には14世紀以来,サンスクリットからの仏教関係などの翻訳や創作などがある。

 音楽,踊り,口承・伝承は地域,民族ごとに独自性を示すが,インドやチベット的要素の混入も多い。また近年,映画,ラジオ,ビデオ,テレビ,カセットテープなどの普及に伴い,インド音楽やその影響の強い創作歌謡の流行が見られる。
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ネパールの美術はインド美術の伝統をうけて展開し,インドがムスリム政権下にあったときも仏教やヒンドゥー教の美術を育て,チベットのそれに大きな影響を及ぼした。仏教ことに密教とヒンドゥー教が信奉され,これに民間信仰が加わってネパール独特の美術を生んだ。アショーカ王は古都パータンに四つのストゥーパを造営したと伝えられ,リッチャビ王朝治下の5~6世紀にインドのグプタ朝文化が導入された。8世紀に一時チベットに征服されたという説もあり,次いでムスリム軍の難を逃れるためインドのヒンドゥー教徒,仏教徒が多数流入した。14世紀前期に混乱が続いた後,14~15世紀には多くの寺院が復興され,ヒンドゥー教が国教の地位を得たが仏教も容認されて現在に至っている。

 建築は木造・煉瓦造が主流を占め,最も特色あるのは中国や日本の仏塔に似た層塔建築である。方形の石造基壇の上に立つ2層,3層,ときには5層の建築で,軒を支える腕木に細緻な彫刻を施す。仏教,ヒンドゥー教の別なく祠堂として用いられ,初層のみが実用に供されている。このほかインド式の砲弾形のシカラをもった祠堂もある。仏教のストゥーパは多くは煉瓦造で,インドの古式を伝えた半球形の覆鉢を塔身とし,その上の箱形のハルミカーの四面に巨大な目を描くのはネパール独特の表現である。非宗教建築としてはバトガウンなどに残る王宮がある。彫刻の素材は石,青銅,木が主で,ときに粘土も用いる。仏教やヒンドゥー教の尊像のほかに,民間信仰の神像,王侯像もある。遺品は5世紀以前にさかのぼるものはまれで,インドのグプタ朝後期からパーラ朝の作風を継承してネパール独自のものを作り上げていったように見える。また木造建築の装飾としての繊細な彫刻は異彩を放っている。絵画には,経典を挟む板に描かれた細密画や経典挿絵,チベットの影響が強い密教のタンカや壁画がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネパール」の意味・わかりやすい解説

ネパール
ねぱーる
Nepal

南アジア、ヒマラヤ山脈中部にある国。政体は連邦民主共和制である。インドと中国(チベット自治区)に挟まれており、歴史的にその双方の文化的影響を受け、政治上も国際的緩衝地帯となっている。変化に富む自然環境と複雑な民族、言語、宗教、文化を構成するが、インド・アーリア系諸語のネパール語を国語とする。面積14万7181平方キロメートル、人口2819万6000(2007年推計)、2649万4504(2011センサス)。首都はカトマンズ。農業を主とするが、エベレスト山をはじめとする高峰をもち、登山者、観光客を集めている。

[高山龍三]

自然

北部には大ヒマラヤ山脈、中央部にはそれに並行するいくつかの山脈と山間盆地や峡谷、最南部にはタライ平野があり、その地勢は高度差8000メートルに及ぶ起伏がある。大ヒマラヤ山脈の主嶺(しゅれい)は、東部のエベレスト山などは中国との国境とほぼ一致するが、中部以西ではマナスル、アンナプルナ、ダウラギリ山群のように国内を走り、国境にはチベット周辺山脈が連なる。これらの主嶺の南側は、標高2000~3000メートルのマハバーラト山脈との間に中間山地(ミッドランド)があり、山腹斜面が耕地化されていて、もっともネパールらしさをもつ地域である。さらにその南に下るとヒマラヤ山脈前山のシワリク(チューレ)丘陵があり、もっとも南側に標高200メートルのタライ平野がこれらの山脈を縁どり、インドのヒンドスタン平野に連なっている。ヒマラヤの氷河の水とモンスーンの雨を集める河川が山脈を横切って深い峡谷をつくり、またときには山脈と山脈の間を流れるなどして、いずれもガンジス川に流れ込む。東西に走る線で、ヒマラヤ高地、中間山地(盆地や峡谷を含む)、タライ平野と、地形を三つに分けることは、高度、地形、起伏、気候、植生のような自然のみならず、作物、生業、民族、宗教などの文化の区分としても有用である。また、東からコシ、ナラヤニ(ガンダク)、カルナリの三大河川を軸にして、東部、中部、西部と分けることも可能である。高低起伏を反映して、気候も亜熱帯から温帯を経て、高山帯に至るきわめて多様の変化をもつ。季節は冬を中心とする乾期と、6~9月の雨期に分かれる。夏のモンスーンはヒマラヤ山脈の南面に雨をもたらすものの、主嶺以北の北西部はこの時期にも乾燥している。このため亜熱帯林から照葉樹林を経て、針葉樹林、高山帯という幅広い植生がみられる。

[高山龍三]

歴史

古代にはいくつかの王朝が現れたが、史実と伝説の区別は困難である。しかしバンシャーバリーとよばれる王朝譜や石碑文の解読、古写経、古貨幣の研究などによってしだいに史実が明らかにされつつある。伝説によれば、釈迦(しゃか)はタライ平野中部の町ルンビニーで生まれ、カピラバストゥ城で育ったといわれる。実証される最古の王朝はリッチャビ王朝で、5世紀後半と考えられる古碑文にマーナ・デバ王の統治が記されている。同王朝はアムシュバルマー王の時代に黄金期を迎え、当時の大都城のようすが唐の僧玄奘(げんじょう)によって記録されている(7世紀)。13世紀から18世紀中葉にかけて、マッラ王朝がカトマンズ盆地を支配した。14世紀後半同王朝のジャヤスティティ・マッラ王Jayasthiti Mallaの時代に、カースト制度が取り入れられ最盛期を迎えたが、その孫のヤクシャ・マッラ王Yaksha Malla(?―1482)の没後、王国はバドガオン、カトマンズ、パタンの3国に分かれ、抗争と和平を繰り返した。肥沃(ひよく)な盆地の農業やネワール人がもつ工芸商才を背景にした都市国家が歴史の担い手であった。今日でもその中世都市の名残(なごり)を都市施設と建造物にみることができる。

 1769年カトマンズ盆地の西方100キロメートルの山地にあったグルカ(ゴルカ)土侯国の王プリトビ・ナラヤン・シャハPrithvi Narayan Shah(1722―1775)は、マッラ王朝の内紛に乗じこれを征服、カトマンズに首都を移し、グルカ王朝を樹立した。この王朝が2008年の王制廃止まで続いたネパール王国の起源となった。グルカ王朝は東西に兵を進めて、東はシッキム、西はガルワールまでを征し、さらにチベットへも侵入した。中部ネパールのチョウビシ・ラージャ(24土侯)、西部ネパールのバイシ・ラージャ(22土侯)などの諸土侯国もグルカ王朝のもとに統一された。その後、王国は北方でチベットおよび清(しん)、南方でイギリス(東インド会社)と衝突した。1814年のイギリスとのグルカ戦争(ネパール戦争)ののち、1816年にサガウリ条約が結ばれ、現在の領土に縮小、首都にイギリスの駐在官が常駐するようになった。19世紀中葉、王の家臣ジャン・バハドゥール・ラナJang Bahadur Rana(1816―1877)が王宮中庭で虐殺を行い、国王の権力を奪ってマハーラージャ(宰相)の位につき、日本の徳川幕府に似た世襲制の将軍政治を確立し、以後1世紀間専制政治が続いた。その後ネパールはふたたびチベットと戦い、インドの大反乱(セポイの反乱)には兵を送ってイギリスを助け、イギリスと友好を保って独立を維持した。

 第二次世界大戦後、インドの独立に刺激されて、ネパール会議派など国民の反ラナ勢力が結集し、民主化への要求が高まった。1951年、インドの支援もあってトリブバン国王Tribhuvan Bir Bikram Shah Dev(1906―1955)の王政復古がなり、ラナ政権、国王、ネパール会議派間の妥協が成立した。しかし政情が安定しないうちに1955年国王が死去、マヘンドラ国王Mahendra Bir Bikram Shah Dev(1920―1972)が継承した。マヘンドラ国王はそれまでの部族長中心の封建政治の改革に着手し、1959年新憲法を発布、初の総選挙が施行されてB・P・コイララBisweswar Prasad Koirala(1915―1982)内閣が生まれた。1960年末、王権の縮小を恐れた国王は突如閣僚を逮捕、議会を解散して憲法を停止し国王親政とした。ついで政党議会制民主主義にかわってパンチャーヤト民主主義という体制がとられ、1962年、その体制を取り入れた国王起草の新憲法が公布された。近代化を推進したマヘンドラ国王が1972年に死去、ビレンドラ国王が王位を継承、1975年に戴冠(たいかん)式をあげた。2001年ビレンドラ国王の死去により、国王の弟ギャネンドラGyanendra Bir Bikram Shah Dev(1947― )が国王となった。2008年制憲議会で連邦民主共和制への移行が宣言され、王制は廃止された。

 ラナ時代から、民族的、宗教的、社会的慣習に基づいて、社会的生活を規定していた国家法典(ムルキ・アイン)があったが、1963年新国家法典が制定され、法のうえではカースト制の廃止、身分・宗教・性別による差別の廃止などがうたわれた。1990年に制定されたネパール王国憲法では、カーストに基づく差別は処罰するべきものとされた。

[高山龍三]

政治・外交

パンチャーヤト(五人組、会議の意)制とよばれる体制を基盤としたが、これは一種の積上げ方式による政治体制で、村落(ガオン)および都市(ナガル)、郡(ジラ)、国家(ラシュトリヤ)の3段階からなっていた。国家パンチャーヤト議席は1980年、直接選挙による選出に改められた。1979年民主化を求めるデモの暴動化に際し、国王は民意を問うことにした。そして1980年、国民投票の結果、パンチャーヤト制支持55%、複数政党制支持45%で、やっとその体制が支持された。同年の憲法改正に基づき、1981年史上2回目の総選挙が実施され、野党はボイコットを呼びかけたが、投票率は52%で、国王派が過半数を占めた。1962年から1990年まで、修正を加えながらもパンチャーヤト制は維持された。

 1990年民主化運動が高まり、ゼネストが起こり、国内は騒然となった。ネパール会議派と統一左翼戦線(共産党など)が手を組み、ほかの組織も同調したといわれる。国王は政党側と妥協を図ったが、ついにパンチャーヤト制の廃止、複数政党制の復活、そのための憲法改正を声明し、ようやく平静になった。同年公布された新憲法は、主権在民、立憲君主制、平等・自由などの基本的権利、二院制の議会、議院内閣制などを柱とし、国王は国家と国民の統合の象徴となったが、軍の統帥権や非常大権をもっていた。

 その後総選挙が実施されたが単独で過半数をとるものがなく、いくつかの組合せの連立内閣による不安定な政治情勢が続き、1996年ネパール共産党毛沢東(もうたくとう)主義派が王制打破を目ざして武装闘争を開始、広い地域がその勢力下となった。

 ギャネンドラ国王は2002年議会(下院)を解散、以降、自らの指名による組閣を繰り返し、2005年には直接統治によって混乱を打開しようとしたが、事態はますます混迷した。2006年、国民の抗議行動が広がるなかで、国王は解散した下院を復活させることを宣言。これにより新政府が発足し、2008年4月に行われた制憲議会選挙で共産党毛沢東主義派が第一党となり、制憲議会で連邦民主共和制への移行が宣言され、王制は廃止された。

 制憲議会の議席数は601で、比例代表枠335、小選挙区枠240、閣議指名枠26となっており、閣議指名枠には選出されなかった少数派グループの代表を含めるとされている。

 ネパールの外交は伝統的に南北二大勢力に偏らない中立政策をとってきた。古くは清(しん)への朝貢、イギリスとの友好関係、イギリスと組んでのインドへの牽制(けんせい)、1955年の国連加盟後は、中国と積極的外交を推進しながら、インドとも関係を保ち、非同盟政策、平和地帯構想など打ち出した。

[高山龍三]

経済・産業

国内総生産(GDP)は約331億ドル(2020)、1人当り国民総所得(GNI)290ドル(2006)はアジアのなかでも低い値を示す。農業生産は国内総生産の約40%を占め、人口の約70%が農業に従事している(2001年国勢調査)。耕地面積は国土の18%、牧草地を加えても30%で、ほかは森林か荒れ地である。大部分が自給農業で、主食である米はタライ地方や亜熱帯、暖温帯の中間山地低地部・盆地(1800メートル以下)でつくられる。ジュートは東部タライで生産され、その製品は輸出される。カトマンズ盆地ではモンスーン期に米、冬の乾期に小麦か野菜というように、集約的な農耕が行われる。山地の主作物はトウモロコシ、雑穀(シコクビエ)、豆類で、段々畑でつくられる。香料のカルダモンの生産は世界第5位である。農耕と牧畜は深く結び付き、家畜は耕作や輸送に使われ、その糞(ふん)は肥料に、乳および乳製品は重要な食料となる。家畜としては低地ではインドコブウシ(耕起、脱穀、運搬用)、水牛(乳、厩肥(きゅうひ)生産、食用)、山地では小形のウシ(耕起用)、高地ではウシとヤクの交配雑種のゾー(乳生産、耕起、運搬用)、ヤク(乳生産、運搬用のほか衣食住材料を提供)が飼われる。ほかにヤギ、ヒツジも乳(バター)、肉、皮、毛の生産のために広く飼われている。

 工業は未発達で、小規模工業を加えても工業生産は国内総生産の10%に満たない。農林産物加工、たとえば精米、タバコ、製材、精糖、ジュート製造工業や繊維産業などがおもなものである。工場はカトマンズ盆地と、東部、中部タライの都市に集中する。

 天然資源としては森林が国土の38%を占め、豊富な亜熱帯林がタライ平野からシワリク丘陵にかけてみられるが、未開発である。鉱産資源も調査が行われているが、企業的に有望なものは少ない。ただ自然条件からみて、潜在水力資源は莫大(ばくだい)なもので、水力開発の調査がなされている。またヒマラヤの大自然と歴史的文化財を有するこの国は、交通路と施設の開発によって世界の観光地となりつつある。通貨は国立銀行発行のネパール・ルピーで、1、2、5、10、20、50、100、500、1000ルピーの銀行券がある。

[高山龍三]

社会・文化

1平方キロメートル当り204人という人口密度(2020)は、起伏の激しい国土としては高い値で、しかも人口は年率2%以上の割で増加している。地形にしたがって、人口密度の高いタライ平野(とくに東部)、次に高い中間山地、低い内陸タライ、もっとも希薄なヒマラヤ高地というように帯状に分布している。そのうちでも際だって人口稠密(ちゅうみつ)な所はカトマンズ盆地で、こことタライ地方に都市が集中している。中間山地からインドのシッキム州などへの人口流出も多い。ネパールには形質的、言語的に、また宗教、社会組織、風俗習慣からみて多彩な集団の共存がみられる。宗教に関していえば、ヒンドゥー教徒が80%いるが、この数字は山地民の相当部分がすでにヒンドゥー教化していることを物語る。しかし土着信仰や儀礼は残っており、重層信仰がみられる。仏教徒は全人口の10%、主としてカトマンズ周辺のネワール人の仏教徒と、ヒマラヤ高地のチベット仏教徒である。イスラム教徒は3.5%である。

 ネパール語を母語とする人は全人口のなかばを超え、共通語として全国的に普及している。大ざっぱにみて、ネパールの南半にコーカソイド系の人種、北半にモンゴロイド系の人種が住み、その母語はそれぞれインド・アーリア系諸語、チベット・ビルマ系諸語であるが、細かくみると複雑である。民族分布は高度起伏と対応している。タライ地方には先住民のタルーがいたが、今日ではビハール語、ベンガル語、ヒンディー語などの方言を話すインド人が居住し、山地からネパール人が移住した。ネパール語を母語とするバウン(ブラーマン)やチェットリ、タクール(クシャトリヤ)は、中間山地の低地に居住し、大部分は水田耕作を営み、少数の職人カーストと、カースト社会をもつ村落を形成する。その上方、中間山地の高地には、ヒマラヤ諸語を母語とする諸民族が畑作と牧畜を生業として居住する。カトマンズ盆地を挟んで東西の山地にタマン、東部山地にライ、リンブー、スヌワール、西部山地にマガル、グルン、タカリーの諸民族が住む。カトマンズ盆地の先住民はネワール人で、古くからインド文明の影響を受け独自の文化を育ててきた。さらにヒマラヤ高地にはチベット系の民族が住み、チベット語の方言を母語とし、麦作、牧畜、隊商交易をあわせた生業に従い、チベット仏教を信じている。学校教育は小学校5年、中学校3年、高校2年の5―3―2制となっており、教育に力を入れているが、義務教育となっていない。1970年では16.6%であった成人識字率は2001年には53.7%となった。大学はカトマンズを中心にトリブバン大学、プルバンチャル大学、ポカラ大学などの国立大学のほか、私学のカトマンズ大学などがある。新聞は日刊紙が58を数える。

[高山龍三]

日本との関係

日本との貿易は、対日輸出額は約746万ドル、対日輸入額は約3617万ドル(2004)と、ネパールの大幅な入超となっている。日本人入国者数は、1999年には4万1070人を記録したが、治安面での不安から減少し、2005年には1万4478人となった。年間の国別入国者数では、インド、イギリス、アメリカに次ぐ。

[高山龍三]

『石井溥編『もっと知りたいネパール』(1986・弘文堂)』『石井溥編『暮らしがわかるアジア読本・ネパール』(1997・河出書房新社)』『D・B・ビスタ著、田村真知子訳『ネパールの人びと』(1993・古今書店)』『薬師義美著『新版・ヒマラヤ文献目録』(1994・白水社)』『田村善次郎著『ネパール周遊紀行』(2004・武蔵野美術大学出版局)』『小倉清子著『ネパール王制解体』(2007・日本放送出版協会)』『清沢洋著『ネパール村人の暮らしと国際協力』(2008・社会評論社)』


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百科事典マイペディア 「ネパール」の意味・わかりやすい解説

ネパール

◎正式名称−ネパール連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Nepal。◎面積−14万7181km2。◎人口−2649万人(2011)。◎首都−カトマンズ(100万人,2011)。◎住民−ネパール人。◎宗教−ヒンドゥー教が大半,その他ラマ教など。◎言語−ネパール語(公用語)が大半,その他マイティリー語,タマン語,ネワール語など。◎通貨−ネパール・ルピーNepalese Rupee。◎元首−大統領,ビディヤ・デビ・バンダリBidhya Devi Bhandari(1961年生れ,2015年10月就任)。◎首相−カドガ・プラサード・シャルマ・オリKhadga Prasad Sharma OLI(1952年生れ,2015年10月就任)。◎憲法−2015年9月新憲法公布。◎国会−制憲議会(601議席,比例代表335,小選挙区240,閣議指名26)。(2015)◎GDP−126億ドル(2008)。◎1人当りGDP−311ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−92.9%(2003)。◎平均寿命−男67.3歳,女69.6歳(2013)。◎乳児死亡率−41‰(2010)。◎識字率−59.1%(2009)。    *    *インド北方,ヒマラヤ山脈中の王国。北部はヒマラヤ山脈が東西に走り,チョモランマ(エベレスト)山はじめ8000m以上の高峰が連なる。南部のタライ低地は高温多雨の森林地帯。中央部にガンダク,コシなどガンガー川の支流が谷間をつくり,ここに住民が集中する。気候は標高による差異が激しい。森林地帯が多く,耕地は少ないが,住民の80%以上が農業に依存する。米,トウモロコシ,小麦,黄麻,木材などを産する。牛,羊の畜産もある。繊維など工業は小規模。インドとの貿易が多い。9世紀に成立したネワール人のマッラ朝が14世紀後半再興されたが3分裂。 1768年プリトゥビ・ナラヤンがグルカ勢力を率いて群雄割拠のなかから,現在に続くシャハ朝を開いた。19世紀はじめのグルカ戦争に敗北してイギリスの保護国とされた。1846年―1951年ラナ一族出身の宰相が支配したが,1951年王政復古した。1990年民主化運動が盛り上がり,西欧型立憲君主制を定めた新憲法が制定された。1994年―1995年,共産党が政権を担当し,1998年―1999年のコイララ政権にも入閣した。2001年6月,カトマンズの王宮内で国王夫妻を含む王族ら約10人が射殺され,ビレンドラ(前)国王の弟ギャネンドラが新国王に即位した。一方,国王を批判し議会再開を求める民主化勢力の街頭抗議行動が激化し,反政府武装組織の共産党毛沢東主義派(マオイスト)の動きも活発化した。2006年11月和平協定締結による内戦が終結し,2007年1月に暫定議会,同年4月に暫定政権発足。2008年4月の制憲議会選挙で,共産党毛沢東主義派が大躍進し第1党となる。同年5月28日,制憲議会は240年続く王制を廃止し,〈連邦民主共和制国家〉への移行を決議,共産党毛沢東主義派のプラチャンダ議長が首相に任命され,早期の憲法制定をめざした。2009年4月,同派の〈党兵〉組織の国軍編入問題に関連してプラチャンダは辞任し,コングレス党(ネパール会議派),統一共産党など22党の連立によりマダブ・クマル・ネパールが首相に選ばれ,共産党毛沢東主義派は野党に転じたが,政党間の対立で,肝心の憲法制定議会の憲法制定作業が停滞。2011年8月,共産党毛沢東主義派のバッタライ元財務相が新首相に選出されたが,2012年5月制憲議会は任期切れで解散。政党間で憲法制定の道筋について話し合いがもたれ,2013年3月,主要政党が合意して,レグミ最高裁長官を首相とする選挙管理内閣で制憲議会選挙を実施することとなった。2013年11月,憲法制定のための議会再選挙が実施され,スシル・コイララの率いるコングレス党が第1党となった。2014年1月,制憲議会が開会し,同年2月にスシル・コイララ・コングレス党党首が首相に選出され,コングレス党及び第2党統一共産党UMLによる連立内閣が発足,新憲法制定に向けた協議が再開された。2015年4月25日,カトマンズ北西77kmのサウラパニを震源とするマグニチュード7.8の地震が発生。ユネスコ世界遺産に登録されているカトマンズ盆地を中心に大きな被害が出た。2015年9月,ネパールを7州からなる連邦共和制国家と規定した新憲法を公布した。連邦共和制に移行してから続いていた憲法のない状態が解消され,政治の安定や地震からの復興に期待が高まる。2015年10月新憲法制定を受けた大統領選挙では第2党統一共産党のビディヤ・デビ・バンダリが選出。ネパール初の女性大統領となった。
→関連項目サガルマータ国立公園南アジア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネパール」の意味・わかりやすい解説

ネパール
Nepal

正式名称 ネパール連邦民主共和国 Sanghiya Loktantrik Ganatantra Nepal。
面積 14万7181km2
人口 3038万6000(2021推計)。
首都 カトマンズ

ヒマラヤ山脈中央部の南半を占める共和国。北は中国のチベット地方,南はインドに挟まれ,800km以上にわたって東西に細長く延びる。大部分はヒマラヤ山脈に属する山地からなり,北部国境地帯を中心にエベレストをはじめとする 7000~8000m級の高峰が連なるが,南部にはガンジス川流域平野の北縁をなす低平なタライ地方が帯状に広がる。全体に季節風(モンスーン)の影響下にあるが,気候は標高による地域差が大きい。住民はカトマンズを中心としたネパール谷とタライ地方に集中。固有の言語をもつ多数の部族からなるが,共通語としてネパール語を使用。ヒンドゥー教徒,仏教徒が多い。古くから伝説も含めて多くの王朝が成立し,中世には南アジアと中央アジアを結ぶ商業・文化中心地として発展。1769年グルカー族のプリトビ・ナラヤンがネパール谷を征服,カトマンズに首都を移し,近代国家の基礎を築いた。その後領土拡大を試みたが,1814~16年イギリスとのグルカー戦争に敗北し,ほぼ現在の領域に撤退。王国の実権は 19世紀半ば以降宰相を世襲したラナ家に握られていたが,1950年の革命を経て立憲君主制が確立。1962年の憲法により,国王親政のパンチャーヤト制(評議会制)が議会に代わって定められた。1979年末,民主化を求めるデモが反政府運動に発展したため,ビレンドラ国王は 1980年5月パンチャーヤト制の是否を問う国民投票を実施(賛成 55%),同年末には改正憲法を公布し,直接選挙を導入した。1990年に民主化運動がさらに激化したため,同年 4月パンチャーヤト制を廃止し,11月主権在民をうたった新憲法を公布。1991年5月に 32年ぶりの総選挙で西ヨーロッパ型立憲君主制が誕生した。2008年制憲議会が発足し,王制が廃止され共和制へ移行。しかし,政党間の対立で 7年以上憲法が制定されない状態が続いた。2015年4月25日,カトマンズ北西約 77kmでマグニチュード(M)7.8の大地震が発生し,約 9000人が死亡,建物 60万以上が倒壊した。地震を契機に制憲の動きが急速化し,9月に新憲法が公布された。経済の主体は農業で,主要作物は水稲,サトウキビ,ジャガイモ,トウモロコシ,コムギなど。工業の発展は遅れているが,政府の工業化推進策により,繊維,食品,たばこ製品などが製造される。観光が重要な外貨獲得産業。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ネパール」の解説

ネパール
Nepal

インドと中国に挟まれる王国。ヒマラヤに連なる山岳地帯と,北インドから続く南部タライ平原部とからなる。首都はカトマンドゥ。多民族・多カースト国家でヒンドゥー教徒が大半を占める。1767年に現在に続く王朝が確立。1951年に王政復古と政党政治の導入があったが,60年に政党政治は挫折し,国王中心の権威主義的な国家パンチャーヤット体制に移行。90年には民主化運動に押されて民主主義体制に移行し,新憲法が公布された。二院からなる議院内閣制をとる。安全保障面ではインドの影響が強く,独自政策を打ち出すのは困難である。経済の基本は自給的な農業が中心で,内陸国であることもあって最貧国の一つである。数次の5カ年計画では,開発予算の多くは外国からの無償援助と借款に依存している。90年代後半以降,厳しい貧困を背景にして西部の農村地帯を中心に毛沢東主義極左の拠点が広がり,大きな政治問題となっている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ネパール」の解説

ネパール
Nepal

インド北東部,ヒマラヤ山脈南麓にある王国。首都カトマンドゥ
唐代には吐蕃 (とばん) の支配を受けたが,14世紀末マトゥラー朝が成立。18世紀後半にはグルカ朝が支配し,チベットに侵入したため,清の高宗乾隆 (けんりゆう) 帝の討伐を受けて属国となった。ネパール戦争の結果,1816年イギリスの支配を受け,1923年に独立した。1950年代には政党政治が行われたが,60年以降は再び国王が全権を握った。

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