バクーニン(読み)ばくーにん(英語表記)Михаил Александрович Бакунин/Mihail Aleksandrovich Bakunin

精選版 日本国語大辞典 「バクーニン」の意味・読み・例文・類語

バクーニン

(Mihail Aljeksandrovič Bakunin ミハイル=アレクサンドロビチ━) ロシアの革命家、無政府主義者。貴族の出。ドイツに学んでからフランスに行き二月革命に参加したが、のち捕えられシベリアに流刑。脱走後再び無政府運動を指導し、第一インターナショナルにも参加したが、マルクス主導権を争って敗れ、除名された。アナーキズム無神論を掲げて暴力革命を説き、当時の作家やナロードニキに大きな影響を与えた。著「神と国家」「国家制度とアナーキー」など。(一八一四‐七六

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デジタル大辞泉 「バクーニン」の意味・読み・例文・類語

バクーニン(Mikhail Aleksandrovich Bakunin)

[1814~1876]ロシアの革命家。無政府主義者。1840年代、ヨーロッパ各地の革命に参加したが捕らえられ、シベリアに流刑。1861年、脱走して日本・アメリカを経て、ロンドンに亡命。第一インターナショナルに参加したが、マルクスと対立して除名された。著「国家制度とアナーキー」「神と国家」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バクーニン」の意味・わかりやすい解説

バクーニン
ばくーにん
Михаил Александрович Бакунин/Mihail Aleksandrovich Bakunin
(1814―1876)

ロシアの革命家。無政府主義と人民主義の指導者。トベリ県(現、カリーニン州)の富裕な地主貴族の家に生まれる。砲兵士官学校を卒業後、一時少尉補として勤務したが、哲学にひかれて退役。モスクワに住んでスタンケービチのサークルに入り、ベリンスキーゲルツェンらと交わって、ドイツ観念論哲学、とくにフィヒテヘーゲルの哲学を学んだ。1842年ベルリン大学に留学、急速にヘーゲル左派に近づき、変名で論文「ドイツにおける反動」を発表し、真の創造のための革命的破壊を呼びかけた。1848~1849年の革命に参加し、ドレスデンの蜂起(ほうき)の指導者の一人となったが、ザクセンの官憲に逮捕されてロシア政府に引き渡され、禁錮(きんこ)刑ののちシベリア流刑となった。しかし1861年に脱出し、日本、アメリカを経てロンドンへ渡り、ここで旧友のゲルツェンやオガリョフとともに、ロシアの専制に抗して立ち上がったポーランド人民の反乱を支持し、ロシア国内の青年に革命を呼びかけた。1868年にはマルクスの創始した国際労働者協会(第一インターナショナル)のジュネーブ支部に加入したが、マルクスと対立し、1872年のハーグ大会で除名された。しかし、マルクスの考えを中央集権的な上からの社会主義として批判し、これに対して下からの自由意志に基づく連合と無政府を唱導した。このようなバクーニンの考えは、イタリア、スイス、スペインの社会主義とアナキズムの革命家に大きな影響を与えた。その後1870年のリヨンの蜂起、1874年のボローニャの蜂起に参加したあと、1876年7月1日スイスのベルンで病死した。主著に『鞭(むち)のゲルマン帝国と社会革命』(1871年執筆)や『国家制度とアナーキー』(1873年執筆)がある。

[外川継男 2015年10月20日]

『外川継男・左近毅編『バクーニン著作集』全6巻(1973~1974・白水社)』『左近毅訳『国家制度とアナーキー』新装復刊(1999・白水社)』『E・H・カー著、大沢正道訳『バクーニン』上下(1965/新装版・1970・現代思潮社/オンデマンド版・2013・現代思潮新社)』『ピルーモヴァ著、佐野努訳『バクーニン伝』上下(1973・三一書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「バクーニン」の意味・わかりやすい解説

バクーニン
Mikhail Aleksandrovich Bakunin
生没年:1814-76

ロシアの革命家,アナーキズムとナロードニキ主義の理論家。貴族の出身で,軍人としての教育を受け将校となったが,1835年転身を望んで退役,36-40年モスクワに移り,ドイツ哲学に親しんだ。その間,スタンケービチ,ベリンスキーらと交わった。40年からベルリン大学で学ぶうちヘーゲル左派を介して政治に傾き,《ドイツにおける反動》(1842)を著し,さらにプルードン,ワイトリング,レレベルらと接して,社会主義とパン・スラブ主義への共感を強め,ついに亡命を決意した。48年に革命気運が高まるや各国へ飛んで決起を呼びかけ,翌年ドイツのドレスデン蜂起で逮捕され,ロシア政府の手に渡って政治監獄へ幽閉の身となった。のち減刑されてイルクーツクに住むうち逃走を計画,日本,アメリカを経てロンドンに渡った。

 同地でゲルツェンの革命雑誌《コロコル》に協力するが,戦術をめぐって対立,イタリアへ移って国際同胞団Internatsional’noe bratstvoを結成,67年平和自由連盟大会に出席し,その綱領とすべく《連合主義,社会主義,反神学主義》を書いた。翌年スイスに転じ,《人民の事業Narodnoe delo》誌を刊行,また国際社会民主同盟を結成,のち解散の形をとって第一インターナショナルへの加入を果たしたが,バーゼル大会でマルクス派との対立が明らかとなった。かたやネチャーエフと協力してロシア向けの革命文書を書き,祖国の革命に変わらぬ関心を示した。反権威主義を掲げたバクーニンは,マルクス派との対立を深め,秘密結社ジュラ連合を設立して自派を強化,72年の彼の除名後もなお両派の応酬は続いた。《あるフランス人への手紙》(1870)でフランスの決起を促し,翌1871年パリ・コミューンが誕生すると,これを強く支持した。この年《鞭のゲルマン帝国と社会革命》《神と国家》などを著し,2年後の73年には《国家制度とアナーキー》を書き上げて引退を決意,数年後ベルンで死んだ。クロポトキンと並び,日本の社会運動にも強い影響を及ぼしてきた。
アナーキズム
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バクーニン」の意味・わかりやすい解説

バクーニン
Bakunin, Mikhail Aleksandrovich

[生]1814.5.30. プレムヒノ
[没]1876.7.1. ベルン
ロシアの無政府主義者。トベーリ県の地主の家に生れる。ペテルブルグ砲兵学校を卒業後,一時将校として軍務についたが,1835年退役。モスクワで N.V.スタンケビッチのサークルに入り,V.G.ベリンスキー,A.I.ゲルツェンらと知合った。この頃ドイツ観念論,特にフィヒテやヘーゲルの研究に没頭。 40年ドイツへ旅立ち,ベルリン大学でシェリングの講義を聴講。 42年『ドイツにおける反動』 Die Reaktion in Deutshlandを執筆,破壊への情熱を説いた。 44年パリでプルードンの影響を受け,この頃から本国政府の注目をひき,帰国命令が出ても無視。 47年ワルシャワ反乱 (1830~31) 記念パリ集会で演説,フランスから追放された。 48~49年の革命に積極的に参加,特にスラブ諸民族の解放と連合を訴えた。 49年ザクセン政府に逮捕され,同政府とオーストリア政府により2度死刑の判決を受けた。その後,51年ロシア政府に引渡され,ペトロパブロフスク要塞に監禁され,57年シベリアへ送られたが,61年脱走,日本,アメリカを経てロンドンにいたった。ロンドンではゲルツェン,N.P.オガリョフらと行動をともにし,64年末第1インターナショナルに加盟したが,国家権力の性格づけなどをめぐってマルクス派と対立。ひそかに「国際同胞団」,次いで 68年には「国際社会民主同盟」などを組織して独自の行動を続けたが,72年第1インターナショナルを除名された。その間,ロシア国内の革命家とも連絡を取り,68年にはジュネーブで『人民の事業』 Narodnoe delo誌を創刊。 69~70年には「ロシアの若き同胞へ」など多数のパンフレットを執筆。 73年には『国家制度とアナーキー』 Gosudarstvennost' i anarkhiyaを著わし,農民大衆の革命性への信頼を呼びかけ,ロシア・ナロードニキ運動に大きな影響を与えた。その後もリヨン (70) やボローニャ (74) 蜂起のバリケードに立つなど活動を続けたが,やがてスイスに引退した。

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百科事典マイペディア 「バクーニン」の意味・わかりやすい解説

バクーニン

ロシアのアナーキズム革命家。貴族出身。1848年の二月革命から1873年のボローニャ蜂起(ほうき)に至るまでヨーロッパ各地で数多くの革命に参加した。第一インターナショナルに加わったがマルクスと対立して除名され,ジュラ連合を組織。ナロードニキにも思想的影響を与えた。スイスで没。主著《神と国家》。
→関連項目アナーキズムクロポトキンコスタ集産主義マラテスタ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「バクーニン」の解説

バクーニン
Mikhail Aleksandrovich Bakunin

1814~76

ロシアの革命家,無政府主義者。貴族の長男に生まれ,砲兵学校出の少尉の地位を捨ててベルリンで哲学を研究し,パリでプルードンマルクスを知った。1849年のドイツの三月革命後逮捕されシベリア流刑,脱走してのち第1インターナショナルに参加。マルクスのプロレタリアート独裁論に反対して除名され,「自由な共同体の自由な連合」を強調する無政府主義の立場を一層強めた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「バクーニン」の解説

バクーニン
Mikhail Aleksandrovich Bakunin

1814〜76
ロシアの思想家・無政府主義者(アナーキスト)
貴族の出身。初め砲兵士官であったが,辞職後,パリに移った。二月革命に参加して捕らえられ,ロシアに護送されてシベリア流刑になったが,脱走してロンドンに渡り,1868年第1インターナショナルに加わった。しかし,1872年マルクスと争って除名された。主著『神と国家』。

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世界大百科事典(旧版)内のバクーニンの言及

【アナーキズム】より

…これに対し,アナーキズムに一定の社会組織のイメージと理論的基礎づけとを与えようとしたのは,19世紀中葉のフランスにおけるプルードンであったが,ここにはサン・シモン,フーリエ以来の社会主義思想の蓄積が生かされており,これを集産主義的アナーキズムと呼ぶ論者もある。同じような系譜に立ちながらも,国家と権威の否定をより強力に叫び,さらにはネチャーエフとの関係などでアナーキズムにテロリズムの色彩を与えさえしたのは,ロシアから出て欧米諸国に広く足跡を残したバクーニンである。彼は第一インターナショナルの中でのマルクスとの論戦を通じて,アナーキスト勢力を一つの党派にまでまとめ上げたといえる。…

【インターナショナル】より

…そして協会を,労働者階級の政治権力獲得をめざす強固な政党組織に変えようとした。他方,ジュラ地方(フランス東部),イタリア,スペインなどの支部は,国家を否定するバクーニンの強い影響もあって,〈反権威主義〉を唱え支部の自治を擁護した。両派は激しく対立し,3年ぶりで開かれ,初めてマルクスも出席した72年のハーグ大会でバクーニンらは除名された。…

【ナロードニキ】より

…その一つ,チャイコフスキーNikolai Vasil’evich Chaikovskii(1850‐1920)のサークルから70年代の主要な活動家がつくり出された。ラブロフの《歴史書簡》から,批判的に思惟しうる知識人は民衆に債務を返さなければならないという考えを与えられた学生たちは,バクーニンの農民反乱の切迫性の考えにも動かされ,74年,〈人民の中へ〉の運動をおこした。数千人が職人や人夫に姿をかえて村々をまわり,革命を宣伝しようとしたが,農民に受け入れられずに終わった。…

※「バクーニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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