バスラ(読み)ばすら(英語表記)Basra

デジタル大辞泉 「バスラ」の意味・読み・例文・類語

バスラ(Basra)

イラク南東部、ペルシア湾に注ぐシャトルアラブ川右岸にある河港都市。原油やナツメヤシなどの積み出し港として発展。638年に軍事都市として建設され、イスラム世界の文化・経済の中心地の一つとして栄えた。アル‐バスラ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バスラ」の意味・わかりやすい解説

バスラ
ばすら
Basra

イラク南東部、バスラ州の州都。同国最大の貿易港湾都市。バスラとは「黒い小石」を意味し、正式にはアル・バスラAl-Basrahという。ペルシア(アラビア)湾口から内陸へ約120キロメートル、シャッタル・アラブ川右岸に位置する。人口40万6296(1987センサス)、137万7000(2003推計)。海岸砂漠気候で夏は高温多湿、年降水量は155ミリメートルで冬に集中する。都市は3地区からなり、古い都市核のバスラ、商業、行政機関の集まるアシャールAshār、それに新しく港湾がつくられたマキールMa‘qilには、バグダードのほかイランクウェート方面に通じる鉄道駅や国際線の発着する空港もある。メソポタミア平原南部の肥沃(ひよく)なデルタ地帯で生産されるナツメヤシ、米、トウモロコシ、キビ類、小麦、大麦などが集散されるほか、世界最大の生産量を誇るナツメヤシをはじめ果実、野菜、原綿、原毛、皮革などが輸出される。近郊のズバイル油田などからの原油の積出し港でもあり、近年は工業都市としての性格を強めている。

[原 隆一]

歴史

638年、第2代カリフであるウマルが、イラン攻撃の基地(イスラム最初の軍営都市)として建設した。以後ペルシア湾最大の国際貿易港として繁栄したが、9世紀初頭のアッバース朝衰退とともに衰えた。15世紀喜望峰の発見、19世紀スエズ運河の開通によって国際貿易都市としての地位は低下し、以後は原油積出し港として栄えたが、1980年のイラン・イラク戦争、91年の湾岸戦争で壊滅的な打撃を受けた。また、2003年のイラク戦争でも戦場となった。

[原 隆一]

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改訂新版 世界大百科事典 「バスラ」の意味・わかりやすい解説

バスラ
al-Baṣra

シャット・アルアラブ川の西岸に位置するイラク第3の人口をもつ都市。人口83万(2003)。古くからの商業都市で,ペルシア湾とバグダードを結ぶ南北交通,ペルシアとメッカを結ぶ東西交通のかなめをなす。古くは没羅国として中国にも知られた。

 バスラとは〈黒い小石〉を意味する。イスラム最初の軍営都市(ミスル)で,638年,ウマル1世の命によりウトバが,現在のバスラ市中心部の南西郊外(現,ズバイルのあたり)に建設した(建設年には異説もある)。正統カリフ時代,ウマイヤ朝時代は,ホラーサーン,中央アジアなど東方の征服の基地として発展し,またイラクの政治・文化の中心都市としてクーファとその覇を競った。アッバース朝になり,バグダードに政治的中心としての地位を譲ったが,商・工・農業の一大中心地として,またアラビア語の文法学やムータジラ派など,イスラムの学問・思想の発祥地として繁栄し,最盛期の人口は30万~60万に達した。9世紀以降はザンジュの乱,カルマト派の反乱など相次ぐ争乱によって荒廃し,モンゴルのイラク侵入後,いっそう衰退した。17~18世紀ころからシャット・アルアラブ川を利用した港湾都市として再び重要性を増し,西欧諸国との交渉も盛んになり,旧バスラの東方に近代的都市が発展した。1937年に石油利権が設定され,第2次大戦後にはバスラ油田として生産が開始されてからは,精油所,肥料工場などの関連プラントが立地して活況を呈している。

 イスラム時代の遺跡としては,4代カリフ,アリーのモスク,思想家ハサン・アルバスリーの墓などが残る。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バスラ」の意味・わかりやすい解説

バスラ
Basra

アラビア語では Al-Basrah。イラク南東部,同名県の県都で,同国南部では最大の都市。ペルシア湾河口から約 110km,内陸のシャットルアラブ川右岸に位置する。市街は,古い都市核であるバスラ地区,近代的な商業地帯であるアスハール地区,港湾施設であるマキール地区,その他から成る集合体である。メソポタミア南部の標高 0mに近いデルタ地帯にあり,付近には運河,用水路が多い。気候は海岸砂漠気候で,夏は特に高温多湿である。 638年にカリフ・ウマルにより建設され,メソポタミアのイスラム化と,ペルシアとの貿易の根拠地とされた。アッバース朝のハールーン・アッラシードの時代に有名になり,『千一夜物語』にはパッソラーの名で登場する。アッバース朝の衰退とともに運河の管理も悪くなり,沈泥のため港の機能も低下した。 13世紀にはモンゴルの侵入により壊滅的な打撃を受けた。 19世紀に入って,ヨーロッパ文明の浸透とともに,チグリス川の水運に蒸気船が導入され,外洋船と内陸水運との積替え港として再生した。特に第1次世界大戦中からは,イギリス人によってマキールに近代的な港湾施設が建設され,メソポタミア地方とインドとを結ぶ門戸として発展し,第2次世界大戦後も施設の整備が続けられている。周辺はナツメヤシの世界的な産地で,バスラはその集散地,輸出港である。石油もここから積出される。 1955年以降,数次にわたる開発計画によって,食品加工,紡績工場,石油関連施設が立地し,工業都市としての性格を強めた。イラン=イラク戦争中の 87年,イラン軍の砲撃により大きな被害を受けた。バグダードおよびイランのアフワーズとは鉄道,幹線道路で結ばれ,クウェートへの幹線道路の起点である。国際空港もある。人口 61万 6700 (1985推計) 。

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百科事典マイペディア 「バスラ」の意味・わかりやすい解説

バスラ

イラク南東部の都市。シャット・アルアラブ川右岸にある河港都市。イラクのデーツの集散地で,多数の運河の周辺でデーツ園が経営されている。国際空港もある。第2次大戦後油田が開発されて,精油のほか重化学工業も発展。湾岸戦争では大きな被害を受けた。638年にアラブの軍事基地として創設され,アッバース朝時代には商業およびイスラムの学問の中心地として繁栄。40万6296人(1987)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「バスラ」の解説

バスラ
al-Baṣra

イラク共和国南部,シャット・アル・アラブに注ぐ運河にそった港町。638年,ウマルの命令によって建設された軍事都市(ミスル)であったが,アッバース朝の初期まで,イスラーム世界の文化・経済の一大中心地であった。インド,中国方面への航路の出発地で,ファーオ港の建設までイラクの海上貿易を独占していた。石油精製工場および国営のナツメヤシ包装工場もある。

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旺文社世界史事典 三訂版 「バスラ」の解説

バスラ
al-Baṣra

イラク南東部,シャット−エル−アラブ川の河口に近い河港都市
7世紀にウマルによりイスラーム遠征軍の軍事都市として建設されたが,東西交通路の要衝で,アッバース朝時代にはインド・中国との貿易で栄えた。現在も,イラク第1の貿易港で,石油・なつめやしを輸出する。

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世界大百科事典(旧版)内のバスラの言及

【都市】より

…もちろん都市の周辺には,都市民に小麦や大麦などの食糧を供給するむらが散在し,またときに定着民と敵対しつつ,平時には武力や乳製品を提供する遊牧民の存在も無視することはできない。バスラやアレッポのような都市の名称が,同時にその周辺のむらや牧草地を含む地方名としても用いられる慣行は,都市とむらと遊牧社会の有機的な結合関係を端的に示すものといえよう。しかし権力者や富裕者はきまって都市に居住し,彼らは商業活動や土地経営による富を都市に集中したから,豊かな消費生活や創造的な文化活動が都市以外のところにおこる可能性はほとんど残されていなかったのである。…

※「バスラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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