バルト帝国(読み)バルトていこく

改訂新版 世界大百科事典 「バルト帝国」の意味・わかりやすい解説

バルト帝国 (バルトていこく)

近世スウェーデンのバルト海沿岸支配に対する呼称バルト海はスウェーデン,ポーランドリトアニアプロイセン,ロシアなどバルト海沿岸諸国にとって唯一の海路であり,中世においてハンザ同盟は,これらの国々の積出港都市をおさえ,リューベック盟主としてバルト海商業を支配した。一方バルト海の外海への出口は,北海へ通ずるエーレソンØresund(エーアソン)海峡のみであり,この狭い海峡の両側はデンマーク固有の領土であり,デンマークとリューベックは中世を通じて対立した。

 16世紀,地理上の発見に端を発し,東欧の穀物などバルト海の一次産品は西・南欧に一大市場を見いだし,この貿易を掌握しようとするオランダとハンザ同盟輸出港支配に反発する生産諸国が,この抗争に加わった。カルマル同盟のもとでデンマークに従属していたスウェーデンは,グスタブ1世バーサのもとで,まずリューベックの援助をうけてデンマークから政治的に独立し(1523),次いでデンマークの内戦において,新教徒側のクリスティアン3世の要請をうけてリューベックを破り,北海への通交権を得て,リューベックから経済的に自立した(1536)。スウェーデンは王位継承問題もからんでポーランド,ロシアと対立していたが,1561年まずエストニアを占領グスタブ2世アドルフのもとで,1610~20年代にはバルト海東岸諸地方を占領したうえ,ポーランドの輸出諸港の用益権を得た。さらにウェストファリア条約(1648)によって西ポンメルン(現,ポモジェ)を得たので,ほぼバルト海沿岸全域を支配し,バルト海はスウェーデンの内海と化した。また,同条約はスウェーデンにブレーメンも与えたので,ユトランド半島南部を横断する交通路がスウェーデンのものとなった。現スウェーデンの南・西部は元来デンマークの一部であったが,西海岸に橋頭堡としてイェーテボリの砦が築かれ(1607),グスタブ2世アドルフがこれを港湾都市として発展させた。さらに,カール10世はデンマークと戦い全海岸線を獲得(ロスキレの和約。1658),北海への出口を確保した。しかしスンド海峡南岸をも征覇しようとする試みは,コペンハーゲン市民の抗戦とオランダの介入によって失敗した(1660)。

 バルト帝国は人口的にみてもスウェーデンの手にあまり,オランダ,デンマークのみならず,みずからの輸出港を欲するポーランド,ロシア,ブランデンブルクともきびしい利害対立をもち,しかも海運自体はオランダに掌握されていた。スウェーデン南部を奪回しようとするデンマークの努力は1679年に撃退されたが,ロシアのピョートル大帝,ポーランドのアウグスト2世(兼ザクセン侯),デンマークのフレゼリク4世は同盟を結び北方戦争(1700-21)によって最終的にスウェーデンのバルト海支配を終焉させた。スウェーデンは,12世紀以来支配下においていたフィンランドを除き,外国領土と権益のほとんどを失ったが,スウェーデン南部を確保し,今日の国境線の原型が完成した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android