ビヨン(François Villon)(読み)びよん(英語表記)François Villon

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ビヨン(François Villon)
びよん
François Villon
(1431―?)

フランス15世紀最大の詩人。百年戦争の末期、ジャンヌ・ダルクが処刑された年、パリに生まれる。聖ブロア教会付き司祭ギヨーム・ド・ビヨンGuillaume de Villonに養育され、その姓を名のる。本名はモンコルビエMontcorbierまたはデ・ロージュDes Loges。1452年パリ大学学芸学部を卒業、文学士の称号を得、のち法学部に籍を置いたが、その修業は不明。55年6月、堕落司祭フィリップ・セルモアと口論、これを殺傷してパリを逐電し、翌年1月、国王赦免状を得てパリに帰る。同年12月キリスト降誕祭の前夜、仲間とともにナバール神学校に押し入り、大金を盗み、ふたたびパリを去って放浪生活に入る。この機会に『形見の歌』をつくる。放浪はロアール川沿いのオルレアン、ブロア、アンジェ一帯の中部フランスに及ぶ。投獄されること二度三度、そのつど運よく放免される。この間にブロアで大公シャルル・ドルレアンに謁して詩を奉り、その詩会に参加したことは確実である。

 1461年の夏、マン・シュル・ロアールの司教牢獄(ろうごく)につながれ、10月に解放されてパリに帰る。大作『遺言書遺言詩集)』を書く。翌年11月、窃盗嫌疑でシャトレ獄に収監、やがて釈放されるが、ある喧嘩(けんか)騒ぎに連累して死一等を免ぜられ、10年間パリ追放の宣告を受けて63年1月パリを去る。以後その足跡はまったく不明で、やがて疲労と病魔のため死亡したであろうと一般に信じられている。しかし死んだという確証もなく、延命生存説をとるむきもある。

佐藤輝夫

ビヨンと15世紀のもつ二面性

ビヨンの生涯は失敗の連続である。百年戦争直後の混乱した社会そのものの影響も考えられるが、弱い性格の持ち主であったことは疑えない。しかしその反面、精神のなかには強くたくましいものがあった。15世紀そのもののもった二面性の現れである。彼は笑いを好むとともに、自己の内部と外部とを見つめた。その凝視のなかから彼の詩は生まれる。ビヨンは徹底的なリアリストである。彼の叙情詩で非現実的なものはほぼ皆無である。アイロニーを好むので、逆説をしばしば弄(ろう)するが、それはかならず現実に立脚している。彼は貧乏で食うに事欠くこともしばしばあった。彼は社会の残滓(ざんし)であった。したがって人間関係で発言すると、その詩は復讐(ふくしゅう)の詩となり、また感謝の表現となった。その復讐と感謝は『形見の歌』のなかでは諧謔(かいぎゃく)や揶揄(やゆ)の色合いを帯びる。彼は笑い飛ばした。若さの表現である。しかし長年の放浪は、彼に種々深刻な経験を与えた。『遺言書』のなかでは、その揶揄と嘲笑(ちょうしょう)には苦味が加わる。その苦味が内心の吐露となると、その叙情は沈痛となり、ときには非常に人間的となる。『遺言書』のうちもっとも美しいのはこの部分である。「昔の貴女のバラード」「老媼(ろうおう)おのが若き日を憶(おも)いて歌える」など、そのもっとも優れたものであり、『雑詩編』のなかの「受刑者のうた」などには、惻々(そくそく)としてわれわれの胸を打つものがある。

[佐藤輝夫]

『鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』(岩波文庫)』『佐藤輝夫著『増補ヴィヨン詩研究』(1979・中央公論社)』『シャンピオン著、佐藤輝夫訳『フランソワ・ヴィヨン 生涯とその時代』全二巻(1971・筑摩書房)』

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