ビルデルデイク(英語表記)Willem Bilderdijk

改訂新版 世界大百科事典 「ビルデルデイク」の意味・わかりやすい解説

ビルデルデイク
Willem Bilderdijk
生没年:1756-1831

オランダ詩人,言語学者。アムステルダム生れ。若くして古典語,近代語,数学,地理,天文学,軍事などの学問才能を表し,ライデン大学で学んで1782年法学の学位を得た。ハーグで弁護士を開業し,熱烈なオラニエ派として活躍し,バタビア共和国の成立とともに95年ロンドンへ,97年ドイツへ亡命。1806年オランダ王国の成立とともに帰国し,国王ルイ・ナポレオンにオランダ語を教え,のちライデン大学で言語史を講じた。自由主義に反抗してダ・コスタDa Costa,ファン・プリンステレルGroen van Prinstererなどの弟子に大きな思想的影響を与え,のちの反革命党の先駆者になった。またロマン派の作家として抒情詩叙事詩教訓詩戯曲などを発表し,ギリシア詩の翻訳,17世紀オランダ詩の出版を行い,《祖国の歴史》(13巻。1833-53)を執筆した。アムステルダム自由大学に〈ビルデルデイク博物館〉がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビルデルデイク」の意味・わかりやすい解説

ビルデルデイク
びるでるでいく
Willem Bilderdijk
(1756―1831)

オランダの詩人、文学者。オランダ思想および文学界への貢献は大きい。ハーグで弁護士として活躍(1782~95)。1795年新政府への忠誠を拒否したため、ロンドンに左遷される。18世紀ヨーロッパの一般的思潮合理主義のなかにあって、詩とは超自然的な才能であり、感情のあるがままの発露であるとし、その力量は情熱的な叙情詩にみいだされる。小編の恋の詩『祈り』(1796)、ナポレオン1世の統括下オランダ国王ルイ・ボナパルト(1世の弟)のオランダ語教師を務めた時代の大作『ナポレオン讃歌(さんか)』(1806)、『別れ』(1810)などがある。『詩の芸術』(1810)、『精神の世界』(1811)などの教訓詩にはその人生論、世界論がうかがわれる。また、一連の小説は独自の鋭いタッチで書かれている。後世の詩人に与えた影響は大きい。

[近藤紀子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のビルデルデイクの言及

【オランダ文学】より

…しかしそのなかで,モリエールにならったランゲンデイクPieter Langendijk(1683‐1756)の喜劇《結婚詐欺》(1714),イギリスのJ.アディソン,スティールを手本としたエッフェンJustus van Effen(1684‐1735)の随筆《オランダのスペクテーター》(1731‐35),2人の女流作家ウォルフBetje Wolff(1738‐1804)とデーケンAagje Deken(1741‐1804)の共同執筆による書簡体小説《サラ・ブルヘルハルト》(1782)などが注目を引く。また,フランス革命の影響によるオランダのフランス服属という民族受難のこの時期(1795‐1813)に,抒情詩《祈り》(1796),戯曲《フローリス5世》(1808)などを書いたビルデルデイクは,オランダ・ロマン主義の先駆として重要な役割を演じた。
[19~20世紀]
 1837年ポットヒーテルにより,自由主義に基づく国民文学の振興を旗じるしに《道標Gids》誌が創刊されると,民族的ロマン主義運動が盛んになり,ボスボーム・トゥサーン夫人Anna L.G.Bosboom‐Toussaint(1812‐86)が三部作《レスター伯》(1846‐55),《デルフトの呪術師》(1870)などの優れた歴史小説を書いた。…

※「ビルデルデイク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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