ピュジェ(英語表記)Pierre Puget

改訂新版 世界大百科事典 「ピュジェ」の意味・わかりやすい解説

ピュジェ
Pierre Puget
生没年:1620-94

フランス彫刻家マルセイユ生れ。ローマピエトロ・ダ・コルトナに学び,初期の作品(トゥーロン市庁舎の〈アトランテス〉,1656-57)にはその影響がうかがえる。1661年よりジェノバ滞在当地で《セバスティアヌス》《処女懐胎》など,ドラマティックな作品を手がける。67年帰国。ローマのバロック様式のフランスにおける継承者といえるが,バロックとしては抑制された様式を示す。《クロトーナのミロン》(1682)で成功したが,作風はルイ14世好みの〈古典主義〉とは異なり,宮廷に受け入れられず孤立した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピュジェ」の意味・わかりやすい解説

ピュジェ
Puget, Pierre

[生]1620.10.16. マルセイユ近郊
[没]1694.12.2. マルセイユ
フランスの彫刻家,画家,建築家。 1640~43年に P.コルトナ弟子としてローマのバルベリーニ宮,フィレンツェパラッツォ・ピッティの天井装飾に従事。 43~56年はマルセイユ,ツーロンで主として画家として活躍。 59年パリに招かれ,ルイ 14世の宰相フーケの注文で作品を制作したが,フーケの失脚後はジェノバで彫刻家として活躍。 69年以後はツーロンとマルセイユに居住。フランスのバロック期の最も個性的な彫刻家として知られた。主要作品はベルサイユ宮殿の庭園を飾った大理石像群『クロトナのミロ』 (1671~84,ルーブル美術館) ,浮彫『アレクサンダーディオゲネス』 (71~93,同) 。

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百科事典マイペディア 「ピュジェ」の意味・わかりやすい解説

ピュジェ

フランスの彫刻家。マルセイユ生れ。2度のイタリア旅行ベリーニピエトロ・ダ・コルトナの影響を受けたが,より劇的な動感と精緻(せいち)な写実による個性的な作風をもつ。代表作は《クロトンのミロン》(1671年―1682年,ルーブル美術館蔵),《アレクサンドロス大王とディオゲネス》(1671年―1693年,同美術館蔵)など。
→関連項目バロック

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピュジェ」の意味・わかりやすい解説

ピュジェ
ぴゅじぇ
Pierre Puget
(1620―1694)

フランスの彫刻家。マルセイユの近郊に生まれる。イタリアでピエトロ・ダ・コルトーナに師事し、マルセイユに戻って制作していたが、1659年パリに出て、フランス、イタリア各地に活躍。コルベールの依頼により『クロトンのミロ』(1683・ルーブル美術館)、『ペルセウスとアンドロメダ』(1684・同)をつくり一時は名声を得るが、バロック様式の激しい造形はルイ14世の古典主義的趣向とあわなかったため、アカデミーに受け入れられず、ベルサイユ宮殿の装飾彫刻家から除外されてしまう。性格的にも職人的で妥協を許さず、「プロバンスのミケランジェロ」と称されたこともある。イタリア・バロック彫刻のフランスにおける唯一の継承者であった。

[染谷 滋]

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世界大百科事典(旧版)内のピュジェの言及

【バロック美術】より

…ベルサイユ宮殿の庭園を飾ったのは,フランス・アカデミズムのもっとも典型的な彫刻家ジラルドンである。彼の作品にはヘレニズム期の作品と共通する宮廷的優美さがあり,その作風は,カトリック的激情を表現するピュジェをおいて,フランスの彫刻の主流となった。 ルイ14世時代には,多くの点で,イタリアやスペインのカトリック的バロックの激情とは一線を画し,宮廷的品位を保とうとする文化的努力が看取される。…

※「ピュジェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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