ファンボイチャウ(英語表記)Phan Boi Chau

デジタル大辞泉 「ファンボイチャウ」の意味・読み・例文・類語

ファン‐ボイ‐チャウ(Phan Boi Chau)

[1867~1940]ベトナム民族運動指導者。漢字名、潘佩珠。1904年にベトナム維新会を結成し、1905年来日。独立運動の指導者となるベトナム青年を留学させるドンズー運動東遊運動)を起こす。1912年に中国でベトナム光復会を結成し、武力による独立革命を目指したが、1925年にフランス官憲に捕らえられた。著「ベトナム亡国史」ほか

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改訂新版 世界大百科事典 「ファンボイチャウ」の意味・わかりやすい解説

ファン・ボイ・チャウ (潘佩珠
)
Phan Boi Chau
生没年:1867-1940

ベトナム近代民族運動の創始者。巣南,是漢の号がある。ベトナム北部ゲアン省の読書人の家の生れ。1885年のバンタン文紳蜂起の失敗後,中国の変法思想や西欧思想の中国語訳本に親しみ,皇族盟主擁立,外国援助による抗仏運動を計画した。1904年クオン・デ(彊)を盟主として維新会を結成,翌年渡日して《ベトナム亡国史》を著し,滞日中の梁啓超在野大隈重信などにベトナムの窮状を訴えた。またドンズー運動(日本遊学運動)を起こしてクォンデらを日本に呼びよせ,新越南公憲会を組織した。09年日本政府は日仏協約によりチャウらを追放し,チャウはタイに亡命した。このころチャウはすでに孫文らの民権思想に共鳴しており,12年の辛亥革命の成功とともに広東に渡って光復会を結成,中国革命同盟会の支援の下に本格的な武力革命を準備したが,14年広東都督の竜斉光に逮捕され入獄した。この時,《獄中書》が記された。17年の出獄後は上海ホンコンを拠点として光復会の武力蜂起を政治的,経済的に指導し,さらに25年ころからは中国国民党に範をとったベトナム国民党設立を計画したが,同年上海でフランス官憲に捕らわれ,ハノイで終身刑を受けた。まもなく民衆の大デモにより,フエでの軟禁に減刑されたが,その政治的生命は終わった。チャウの思想と行動の変遷は,勤王主義から民権思想を経て社会主義に接近するもので,20世紀初頭ベトナムの民族運動の軌跡を代表する。
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世界大百科事典(旧版)内のファンボイチャウの言及

【維新会】より

…20世紀初頭のベトナム民族運動組織。1904年ファン・ボイ・チャウらを中心として組織された。盟主には皇族クオン・デ(彊)を推戴し,ベトナムの独立回復と立憲君主制の樹立を綱領とした。…

【光復会】より

ドンズー運動失敗の後,広東に移ったファン・ボイ・チャウらが1912年に設立したベトナムの革命組織。維新会の後身。…

【ベトナム】より

…こうしてベトナムは北部と南部という典型的な植民地下二重経済構造をつくりあげた。20世紀初頭,ファン・ボイ・チャウドンズー(東遊)運動ファン・チュ・チンの維新運動など,民族運動の近代化を志向する運動が起こったが,前者の革命路線も後者の啓蒙的改良運動もともにフランスの弾圧によって潰えた。 第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。…

※「ファンボイチャウ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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