フィッシャー(Emil Hermann Fischer)(読み)ふぃっしゃー(英語表記)Emil Hermann Fischer

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

フィッシャー(Emil Hermann Fischer)
ふぃっしゃー
Emil Hermann Fischer
(1852―1919)

ドイツの化学者。ボン近郊のオイスキルヘンに生まれる。父は有能な企業家で息子を跡継ぎにしようとしたが、そのもくろみはうまくいかず、息子は1871年ボン大学に入学、ケクレ講義を聞いた。翌1872年ストラスブール(シュトラスブルク)大学に移りバイヤーの下で化学を学び、1874年学位をとった。翌1875年バイヤーとともにミュンヘン大学へ移り、1879年員外教授、1882年エルランゲン大学教授、1885年ウュルツブルク大学教授を経て、1892年ベルリン大学化学教授になり、1902年糖類とプリン類の合成でノーベル化学賞を受賞した。第一次世界大戦中、3人の息子のうち長男を除いて2人までを失った(生き残った長男のヘルマンHermann Otto Laurenz Fischer(1888―1960)はのちに有名な有機化学者になった)が、化学製品生産と食糧供給委員会の長としてドイツの化学資源の組織化に活躍し、戦後、化学教育の再編や研究施設の充実に努力した。

 生体構成物質の構造の解明と合成が生涯にわたるフィッシャーの研究テーマであり、彼が現代の天然物化学の基礎を確立した。最初の論文は、彼自身が発見したフェニルヒドラジン誘導体に関するもので、これは後の研究において何度か中心的役割を果たすことになった。1878年までにフェニルヒドラジンそのものを合成し構造式を確立、1884年にはカルボニル基に対する試薬としてのフェニルヒドラジンの有用性(結晶性のヒドラゾンの生成)を発見、とくに、糖類ではカルボニル基に隣接するヒドロキシ基とも反応して結晶性のオサゾンを生成するため、後の糖類の構造研究上不可欠の試薬となった。フィッシャーの学位論文色素染料の化学に関するものであったが、これを拡張して、従弟(いとこ)のオットーOtto Phillip Fischer(1852―1932)とともにローズアニリン系色素の構造を研究し、これらがトリフェニルメタン誘導体であることを明らかにした。フィッシャーは、1881年尿酸とその誘導体の研究を始め、1914年のヌクレオチドの最初の合成に至るまでに、わずかな先行研究しかなかったプリン類の化学をほとんど独力で開拓した。1900年までに、プリン類の母体たるプリン(フィッシャーの命名)をはじめ、約130の誘導体の構造決定と合成を行っている。生化学上重要なものの多いプリン類は、ドイツの製薬界からも注目されて、薬理作用をもついくつかのプリン誘導体がフィッシャーの合成法で工業化された。

 1884年、糖質の研究を始め、1891年までにファント・ホッフの立体化学理論から予想されたグルコースの16の立体異性体の立体配置を実験的に確定した。この実験技法を用いて多くの天然糖の構造決定と天然にない糖の合成を行い、1893年には最初のグリコシドを合成し、その環状構造を示唆した。また糖発酵の研究から有名な酵素作用の鍵と鍵穴モデル(かぎとかぎあなもでる)を提出した(1894)。1899年カフェインの全合成を行い、さらに同年タンパク質の研究を始め、おもにアミノ酸の分離と合成(プロリン、セリン、バリンなど)、ポリペプチド合成の研究をした。1916年に約100のポリペプチドの合成研究をまとめた。ベルリンの彼の教室に留学した日本人には鈴木梅太郎、朝比奈泰彦(あさひなやすひこ)らがいる。

[梶 雅範]

『桑田智訳『エミール・フィッシャーの自叙伝――思い出より』(1963・広川書店)』

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