フォイアマン

百科事典マイペディア 「フォイアマン」の意味・わかりやすい解説

フォイアマン

オーストリア出身のチェロ奏者。カザルスとともに20世紀前半のチェロ界を代表する大家。ガリツィア地方のコロミヤ(現ウクライナ領)に生まれ,7歳で家族とウィーンへ移住。父からチェロの手ほどきを受け,11歳でワインガルトナー指揮のウィーン交響楽団と共演しデビュー。ライプチヒ音楽院で名チェロ奏者J.クレンゲル〔1859-1933〕に師事し,演奏活動の一方ベルリン高等音楽学校などで教鞭(きょうべん)をとる。1933年ナチスにより職を追われ,世界各地で演奏ののち1938年米国に定住し市民権取得。渡米後は独奏ほかシュナーベルハイフェッツルビンステインプリムローズらと室内楽で共演し,強靭(きょうじん)な技巧とスケールの大きな表現で名声を高めた。手術の失敗のため39歳で急逝。1934年と1936年に来日。→トッホ
→関連項目チェロピアティゴルスキー

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改訂新版 世界大百科事典 「フォイアマン」の意味・わかりやすい解説

フォイアマン
Emanuel Feuermann
生没年:1902-42

オーストリアのチェロ奏者。1912年ウィーンでデビュー,その後ライプチヒでJ.クレンゲルに師事する。ケルン音楽院,次いでベルリン高等音楽学校で,さらに33年ナチス政権を逃れて渡米した後はカーティス音楽学校で教鞭をとった。完璧な技巧と明確な現代的スタイルをもつその演奏のため,第1次大戦前の時代に,独奏,室内楽の両分野でP.カザルスに次ぐ世界的名声を博した。A.シュナーベル(ピアノ),B.フーベルマンバイオリン)との,あるいはA.ルビンステイン,J.ハイフェッツと組んだトリオは有名である。34年と36年に来日した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォイアマン」の意味・わかりやすい解説

フォイアマン
ふぉいあまん
Emanuel Feuermann
(1902―1942)

オーストリア出身のアメリカのチェロ奏者。ウィーンとライプツィヒで学び、短期間オーケストラ奏者を務めたのち、独奏、室内楽、教育活動に入る。1929年ベルリン音楽大学教授となったが、ナチスに反対して辞任、渡米。34年(昭和9)と36年に来日している。卓越した技巧家として知られ、バイオリン独奏曲をチェロで楽々と演奏して聴衆を驚かせた。渡米後は独奏のほか、ルービンシュタイン、ハイフェッツとピアノ三重奏を組んで活躍、またカーチス音楽学校教授も務めた。カザルスの後継者と目されたが、40歳の誕生日を前にニューヨークで病死した。

[岩井宏之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォイアマン」の意味・わかりやすい解説

フォイアマン
Feuermann, Emanuel

[生]1902.11.22. コロムイヤ
[没]1942.5.25. ニューヨーク
オーストリアのチェロ奏者。ウィーンで A.ワルターに師事,11歳でデビューし,ライプチヒで J.クレンゲルに学び,16歳でケルン音楽院の教授になった。 1929~33年ベルリン音楽院の教授。すぐれた技巧と堂々たる風格のあるスタイルで 20世紀前半最高のチェリストと称された。 38年アメリカに帰化。

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デジタル大辞泉プラス 「フォイアマン」の解説

フォイアマン

アントニオ・ストラディバリ製作によるチェロ。1730年製。日本音楽財団が保有している。名称は、チェリストのエマニュエル・フォイアマン(1902-1942)が1934年以降、長年にわたり演奏してきたことにちなむ。一般的なチェロと比べ、本体部分が細長いのが特徴。

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