フレデリックヘンドリック(英語表記)Frederik Hendrik

改訂新版 世界大百科事典 の解説

フレデリック・ヘンドリック
Frederik Hendrik
生没年:1584-1647

オランダ総督ウィレム1世の末子で,ナッサウ伯,オラニエ公。異母兄のマウリッツのもとで軍人としての教育をうけ,数学を基礎にした合理的な軍隊の編制を手がける。1600年のニウポールトの戦を皮切りに各地でスペイン軍と戦った。1625年にオランダ共和国軍の最高司令官に就任し,マウリッツの死とともにその後継者として総督の地位につく。そして直ちに,スペイン軍に占領されている都市の奪回に着手し,スヘルトヘンボス,マーストリヒトルールモントブレダなどの重要な都市を次々と奪いかえし,〈都市の征服者〉という異名をとった。ほぼ現在のオランダの国境線の内部に含まれる地域を共和国の支配下に組み入れたのは彼の功績である。1634-35年にはフランス攻守同盟を結んでスペイン領南ネーデルラントの解放をめざしたが,アントワープの経済的再生を恐れていたアムステルダムの反対やスペイン軍の抵抗にあい,結局は成功しなかった。彼はオラニエ家ヨーロッパの一王家の地位にまで引き上げようとして,フランスやイギリスの王家と友好関係を保つとともに,長子(後のウィレム2世)をイギリスのチャールズ1世の王女メアリーと結婚させることに成功した。それによってオラニエ家を総督の地位からオランダの主権者の地位に高めようとしたのである。しかし彼の死とウィレム2世の早世(1650)によってその望みは絶たれた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフレデリックヘンドリックの言及

【オラニエ=ナッサウ家】より

…ウィレム1世は若くしてドイツ皇帝カール5世の側近として将来を期待されたが,のちにオランダ共和国独立の指導者となり,オランダ諸州の総督に就任し,建国の父として記憶される。ウィレムが暗殺されると,その子マウリッツさらに弟フレデリック・ヘンドリックが総督職を継ぎ,対スペイン独立戦争を指導した。17世紀中葉,オランダの国力,経済,文化は絶頂に達し,オラニエ=ナッサウ家はヨーロッパ諸国の王室,大貴族と姻戚関係を結び,ハーグにある総督官邸は宮廷のような栄光につつまれた。…

【オランダ共和国】より

…1618年,総督マウリッツはクーデタを起こし,30年以上共和国を導いた議会派の指導者オルデンバルネフェルトを逮捕し,翌年処刑した。 マウリッツのあとを継いだ総督フレデリック・ヘンドリックも優れた武人で,21年再開された対スペイン戦争を優勢に展開し,北ブラバント,リンブルフ両州を共和国領に加え,35年にはフランスと攻守同盟を結んでスペイン領南ネーデルラントを脅かした。
[黄金時代の経済と文化]
 オランダはウェストファリア条約でスペインと和を講じ,諸列強からその独立を承認され,経済的繁栄の絶頂期と文化の黄金時代を迎えた。…

※「フレデリックヘンドリック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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