ブルゴーニュ朝(読み)ブルゴーニュちょう(英語表記)Bourgogne

翻訳|Bourgogne

改訂新版 世界大百科事典 「ブルゴーニュ朝」の意味・わかりやすい解説

ブルゴーニュ朝 (ブルゴーニュちょう)
Bourgogne

中世イベリア半島カスティリャポルトガル2国の王朝。王朝名はフランスのブルゴーニュ公家出身のライムンド(レモン)とエンリケアンリ)のいとこに由来する。11世紀末,2人はイベリア半島のレコンキスタ(国土回復戦争)に参加,カスティリャ王アルフォンソ6世の娘ウラカおよびテレサの2人とそれぞれ結婚した。この後まもなくカスティリャでは1108年にサンチョ皇太子が戦死,翌年にはアルフォンソ王も死んで王家の男系が絶え,ウラカが王位を継いだ。そしてその後には彼女とライムンドの子アルフォンソ7世がカスティリャの王位に就いてブルゴーニュ朝が始まった(1126)。他方,テレサとエンリケの子アフォンソ(1世)は祖父王の死後カスティリャが陥った混迷に乗じてポルトガル伯領の独立を指向,1143年にはこれを達成した。したがって,ブルゴーニュ朝はポルトガル建国の初代王朝である。ポルトガルはイスラム教徒との戦いを続け,1249年までに南部のアルガルベ全域を征服してほぼ現在の国境を形成した。14世紀初頭ディニス王治世下に最盛期を迎えた。

 ブルゴーニュ朝はカスティリャではペドロ1世の暗殺死(1369)によって,ポルトガルでは男子後継者のいなかったフェルナンド1世の死(1383)によって,それぞれ断絶した。
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世界大百科事典(旧版)内のブルゴーニュ朝の言及

【ポルトガル】より

…その一人アンリ・ド・ブルゴーニュはアルフォンソ6世の王女テレサと結婚し,1095年ポルトゥカレ伯としてミーニョ川,ドウロ川間の地に封じられた。その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は,1143年ローマ教皇の仲介でカスティリャから独立してポルトガル王国を建国し,コインブラを首都とするブルゴーニュ朝を開いた。このようにポルトガルの独立は封建制度をてこにして国土回復戦争の過程から生まれたものであるが,その独立には,スエビ王国の伝統を受け継ぐブラガ大司教が,半島全体を支配するトレド大司教からの独立を望んでアフォンソ1世を支援したという宗教的要因もからんでいる。…

※「ブルゴーニュ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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