プラケーシン2世(読み)プラケーシンにせい(英語表記)Pulakeśin II

改訂新版 世界大百科事典 「プラケーシン2世」の意味・わかりやすい解説

プラケーシン[2世]
Pulakeśin Ⅱ
生没年:?-643ころ

インドの前期西チャールキヤ朝君主在位610ころ-643年ころ。叔父のマンガレーシャMaṅgaleśaを殺して内乱を鎮静し,王位に就くと四方の群小勢力を服属させて王国を拡大した。当時北インドで覇を唱えていたハルシャ・バルダナ王のデカン侵攻を阻止したのは有名で,ペルシアホスロー2世からも使節が送られたといわれている。玄奘がインド各地を歴訪したのもこの王の時で,王国の土地が肥沃農業の盛んなこと,人々の素朴で勇猛な性情などを書き残している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プラケーシン2世」の意味・わかりやすい解説

プラケーシン2世
プラケーシンにせい
Pulakeśin II

[生]?
[没]642
インド,前期チャールキヤ朝第4代の王 (在位 608~642) 。デカン一帯の諸勢力を平定して王朝最盛期をもたらした。当時北インドを平定したハルシャバルダナ王の南下軍を打ち破ってその進入を阻止。南はパッラバ朝激戦を繰返し,一時その都の北まで迫ったが,晩年には逆襲を受け都のバーダーミを占領された。

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世界大百科事典(旧版)内のプラケーシン2世の言及

【カダンバ朝】より

…その死後2人の子の間で国が南北に分裂し,北の兄王統は5人の王が立って6世紀中ごろまで続いたが,北方にチャールキヤ朝の勢力が拡大すると衰退した。南の弟王統もパッラバ朝,チャールキヤ朝に従属することが多く,7世紀初頭に6代目の王がチャールキヤ朝プラケーシン2世に倒された後は衰微の一途をたどった。のち10世紀から12世紀にかけて勢力を回復したが,地方的小政権の域を出るものとはならなかった。…

【チャールキヤ朝】より

…主要な系統はバーダーミBādāmi,カルヤーニKalyāṇi,東チャールキヤの三つで,前2者を併せて西チャールキヤ朝と呼ぶ場合もある。 バーダーミのチャールキヤ朝(前期西チャールキヤ朝)は,プラケーシン1世Pulakeśin Iによって6世紀半ばにバーダーミを都として始められ,8世紀中葉まで存続した。2代,3代の王キールティバルマン1世Kīrtivarman I,マンガレーシャMangaleśaは初代の子で,王朝の版図を拡大したが,王位継承をめぐって内乱が生じると2代王の子プラケーシン2世が610年ころ叔父マンガレーシャを殺して内乱を鎮定し王位に就いた。…

※「プラケーシン2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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