プーシキン(Aleksandr Sergeevich Pushkin)(読み)ぷーしきん(英語表記)Александр Сергеевич Пушкин/Aleksandr Sergeevich Pushkin

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

プーシキン(Aleksandr Sergeevich Pushkin)
ぷーしきん
Александр Сергеевич Пушкин/Aleksandr Sergeevich Pushkin
(1799―1837)

19世紀ロシア最大の詩人で、ロシア国民文学の創始者。プーシキンの最大の文化的功績は、近代的なロシア文章語の標準の確立と世界文学の水準に達する新しい文学の創造の2点に集束する。

[栗原成郎]

近代ロシア文章語の完成者

プーシキンは、11世紀から19世紀初頭に至るまでのロシア文章語において歴史的役割を果たしてきた言語文化の諸要素(教会スラブ語法、ヨーロッパ語法、ロシア民衆語法)を独自に総合し、新しい国民的文章語の創造に努力した。初期のプーシキンの言語は、ロシア語を西欧近代語の体系に近づけようとするカラムジン派のスタイルに依拠したが、『エウゲーニー・オネーギン』『ジプシー』『ボリス・ゴドゥノフ』を書く20年代のなかばから前述の言語文化要素の総合の過程が始まった。彼は自分の作品のなかにさまざまの資料から異なる言語要素を大胆に導入しつつ、その一方において、統語法の型と語彙(ごい)の用法原則を設定して、率直で気品に満ち、柔軟で活力にあふれた文学的言語を創造した。

 プーシキンは、叙情詩叙事詩、物語詩、劇詩、民話詩、短編小説、長編小説、歴史文学、紀行文学、評論など、近代文学のあらゆるジャンルを開拓し、しかもそれぞれの分野において同じように高い完成度をもった作品を創作し、それによってロシア文学の発達の歴史に新しい時期を画した。

[栗原成郎]

生い立ち

1799年5月26日(ロシア暦)モスクワに生まれた。プーシキン家は由緒ある貴族の家柄で、父セルゲイは退役近衛(このえ)少佐。母ナデージダは、ロシアに帰化したアビシニアエチオピア)人でピョートル大帝の寵臣(ちょうしん)ガンニバル将軍の孫娘であった。プーシキンは600年続いた古いロシア貴族の家門とアフリカの情熱的な血との混血を誇りとして、それを作品の題材とさえしている(叙情詩『わが系譜』、小説『ピョートル大帝の黒奴』など)。父はフランス古典文学に通じた粋人で、カラムジンドミートリエフジュコフスキーなどの文人がよく客間に集まった。伯父のワシーリイ・プーシキンはカラムジン派の教養豊かな詩人であった。このような知的環境のなかでプーシキンは文学的に早熟となり、父のフランス語蔵書を読みあさり、10歳ごろからフランス語で詩を書き始めた。1811年サンクト・ペテルブルグ近郊のツァールスコエ・セロー(皇帝村、現プーシキン市)に開設された寄宿制の貴族学校リツェイに第1期生として入学し、自由主義的な校風のなかで知的に成長し、6年間の在学中に約150編の詩を書いたが、それらの詩は後期古典派の影響下にあった。17年リツェイを卒業、外務院に勤務し、首都サンクト・ペテルブルグで華やかな社交生活を送りながら、20年にロシアのフォークロアに材をとった軽妙で優美な物語詩『ルスランとリュドミラ』を完成し、世間の喝采(かっさい)を浴びた。しかしその一方においては、デカブリストの思想に共鳴し、皇帝批判を含む頌詩(しょうし)『自由』(1817)、農奴制の崩壊を予言した『農村』(1819)など一連の過激な政治詩を書いたことがアレクサンドル1世の逆鱗(げきりん)に触れ、同年、南ロシアに追放された。

[栗原成郎]

追放時代

南方追放時代(1820~24)はプーシキンのロマンチシズムの開花期にあたり、バイロンの影響のもとに『コーカサスの捕虜』(1820~21)、『盗賊の兄弟』(1821~22)、『バフチサライの泉』(1822~23)の3編の物語詩が書かれた。1823年には韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』が起稿される。そのころからロマン主義の限界が意識されるようになり、物語詩『ジプシー』(1824)においてはバイロン的主人公に対して批判の目が向けられ、のちに詩人の重要課題となる個人と社会、自由と運命の問題が鋭く提起される。

 1824年夏、無神論を肯定した手紙が理由となって官職を解かれ、母方の領地プスコフ県ミハイロフスコエ村に幽閉の身となる。ミハイロフスコエ村蟄居(ちっきょ)の2年間に悲劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1825)を完成した。

[栗原成郎]

傑作散文の完成

1826年秋、ニコライ1世によって追放を解かれるが、以後晩年まで官憲の厳しい監視と検閲のもとに置かれる。31年、絶世の美女ナターリヤと結婚するが、その前年の秋、結婚祝いに父より譲与されたニジェゴロド県ボルジノ村に赴き、約50編のさまざまなジャンルにわたる作品を3か月間で書き上げた。短編小説集『ベールキン物語』、4編の小悲劇『石の客』『吝嗇(りんしょく)の騎士』『モーツァルトとサリエリ』『疫病さなかの酒宴』、および韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』の基本部分がこのとき完成した。

 ナターリヤとの結婚は詩人の悲劇の始まりを意味した。ナターリヤはその希有(けう)の美貌(びぼう)のゆえに社交界の華ともてはやされ、宮廷の舞踏会にとって不可欠な存在であった関係から、プーシキンは侍従補に任じられ、宮廷勤務を余儀なくされた。この人事は詩人にとって屈辱以外のなにものでもなかったが、その苦境のなかで『プガチョフ反乱史』(1833)、小説『大尉の娘』(1836)、最後の物語詩『青銅の騎士』(1833)、中編小説『スペードの女王』(1834)などを書いた。1837年1月27日(ロシア暦)プーシキンは、妻ナターリヤのスキャンダルがもとで、フランス出身の近衛青年士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘に追い込まれ、腹部に致命傷を受け、2日後に38歳の短い生涯を閉じた。

[栗原成郎]

国民詩人

プーシキンの本領は叙情詩の分野においてもっともよく発揮される。彼の詩の主要な特徴は音(おん)・リズムと意味・イメージとの自然な結び付き、完全な調和にあり、自己の精神体験に基づいた心底から湧(わ)き起こる志向と感情が音楽性を伴って表現される点にある。プーシキンは、ロシアの真実、ロシア人の国民性、ロシアの歴史的・社会的条件を記述しえた真の意味での国民詩人であり、ロシア文学を普遍的なものに高めた。

[栗原成郎]

『『プーシキン全集』全6巻(1972~74・河出書房新社)』『池田健太郎訳『オネーギン』(岩波文庫)』『神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』(岩波文庫)』『金子幸彦訳『プーシキン詩集』(岩波文庫)』『神西清訳『大尉の娘』(岩波文庫)』『池田健太郎著『プーシキン伝』(中公文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android