ヘルツォーク(英語表記)Herzog

改訂新版 世界大百科事典 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク
Herzog

フランク王国,ドイツ王国における官職,称号。大公または公と訳されることが多い。古ゲルマン人のもとで,戦時に置かれる最高の軍隊指揮官で,多くの場合有力豪族が選ばれた。フランク王国でも大公の制度が認められるが,これはローマ帝国末期,国境守備軍の指揮官として各地に置かれた将軍(ドゥクスdux)の制度を継承したもので,主として辺境地域に置かれた。メロビング朝末期,王権の弱体化と各地豪族の自立化に伴って,チューリンゲンバイエルンアラマン,フリーゼン,アクイタニアに大公が出現する。アクイタニア以外は大公の支配領域が部族領域と結合しているので,部族大公制と呼ばれる。カロリング朝は部族大公制を廃止し,大公領を多くのグラーフシャフトグラーフ)に分割するが,王朝末期には,再びバイエルン,シュワーベン,フランケン,ザクセンの部族大公領が復活し(新部族大公制),ザクセン朝,ザリエル朝,シュタウフェン朝を通じ,いずれかの部族大公の家門がドイツ王位を世襲して,部族大公領は,中世ドイツ国家の重要な構成単位となった。フリードリヒ1世は部族大公の権力を弱める一手段として,バイエルン大公領の東部を切り離し,オーストリア大公領を新設したのをはじめ,部族大公領の分割に努めた。さらに大公家門内部の分割相続による大公領の細分化の傾向もこれに加わり,大公領は部族領域との結び付きを失い,領域大公領へと変質を遂げた。
ランデスヘルシャフト
執筆者:

ヘルツォーク
James Barry Munnik Hertzog
生没年:1866-1942

南アフリカの軍人,政治家。ケープ州ウェリントンに生まれ,ステレンボッシュ大学法学部卒業後,オランダに留学。1893年帰国しトランスバール最高裁判所判事となったが,ボーア戦争勃発とともにボーア軍指揮官として参戦。1910年南ア連邦結成後,ボータ内閣に司法相として入閣。しかし親イギリス的なボータに対抗してボーア人ナショナリズムを提唱し14年国民党を結成。22年のラント金鉱山ストライキ後,労働党と提携して24年第1次ヘルツォーク内閣組閣。ボーア人のプーア・ホワイトpoor whiteを保護するさまざまな人種差別法を制定すると同時に,26年大英帝国会議に出席して南ア連邦の主権を主張,31年自治領dominionの地位を獲得した。第2次(1929-33)内閣後,大恐慌からの回復のためスマッツと合同して連合党を結成,第3次(1933-38),第4次(1938-39)内閣を組閣したが,第2次大戦に際し中立を主張して,連合軍側参戦を主張するスマッツに敗れ,39年辞任,42年失意のうちに亡くなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク
Herzog, Roman

[生]1934.4.5. ランツフート
[没]2017.1.10. バートメルゲントハイム
ドイツの政治家。大統領(在任 1994~99)。バイエルン州で生まれ,教育を受けた。1958年,ミュンヘン大学で法学博士号を取得。1966年に,ベルリン自由大学で憲法学および政治学の教授に就任した。1969年にシュパイアー行政大学院に移って政治学を教え,翌 1970年に中道右派キリスト教民主同盟に入党した。シュパイアー行政大学院時代に,ラインラントファルツ州の首相だったヘルムート・コールに出会い,1973年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都ボンで,ラインラントファルツ州の全権代表となった。その後政府の役職を歴任し,最終的にシュツットガルトに移り 1980年にはバーデンウュルテンベルク州の内務大臣となった。1983年に連邦憲法裁判所副長官に就任。1987年に同裁判所長官となった。1994年5月,1990年の東西ドイツの統一後初めての連邦大統領選挙が行なわれ,3回目の投票で当選に必要な過半数の票を獲得し,勝利した。大統領任期中はドイツ民主共和国(東ドイツ)と西ドイツの相互理解を深めることに努めた。またヨーロッパ統一の推進派でもあった。1999年に任期が満了すると,ドイツ内の複数の大学で非常勤の教授として教鞭をとった。2003年,ミュンヘンにローマン・ヘルツォーク研究センターを設立した。

ヘルツォーク
Herzog; duc; duke

もともと古ゲルマンの軍隊統率者の意で,ラテン語でドゥクス duxと呼ばれ,戦争の際の人民集会で貴族のなかから選ばれたが,やがて平時においても政治的な指導者をこう呼ぶようになった。その権威は王に準じるものであった。メロビング朝の王権衰退期に,バイエルン,アレマンネンなどの諸部族を支配する「部族公」 Stammes-Herzogが出現し,この地方的勢力は,カロリング朝のもとで一度制圧されたのち,10世紀初めに復活し,12世紀中頃までドイツ帝国の土台を形成した。封建制の発達とともにヘルツォーク職は,一般にグラーフの上,王の下に立つ大貴族の位階をさすようになるが,「公 (こう) 」と訳されるこの高級貴族の国制史的な役割は国によって一様でない。

ヘルツォーク
Hertzog, James Barry Munnik

[生]1866.4.3. ケープ植民地ウェリントン近郊
[没]1942.11.21. プレトリア
南アフリカ共和国の軍人,政治家,アフリカーナー (現地オランダ系白人) 民族主義者。アムステルダム大学卒業後,弁護士,次いで判事となったが,1899~1902年の南ア戦争 (第2次ボーア戦争) に司令官として従軍。 10年連邦成立後 L.ボータ内閣の法相となり,12年に反英的立場から辞職。 14年アフリカーナーを基盤とする国民党を結成,24年の総選挙に労働党と組んで勝ち,首相となった。第2次世界大戦の際中立を主張し,39年参戦をめぐる議会の表決で敗れて辞職。 40年に議員も辞任した。

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百科事典マイペディア 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク

南アフリカの軍人,政治家。ケープ州ウェリントンに生まれ,ステレンボッシュ大学法学部卒業後,アムステルダム大学に留学。1893年帰国し,弁護士を開業した後,トランスバール最高裁判所判事となった。1899年10月,第2次ボーア戦争が勃発するとボーア軍司令官として参戦。1902年英国が勝利した後も反英的立場をとった。1910年に南ア連邦が結成されると,最初の首相ボータの率いる内閣の司法相となるが,1912年,親英的なボータと別れ,1914年国民党を結成,完全な南アフリカの独立を主張した。その後労働党と提携して1924年の選挙に勝利し,第1次ヘルツォーク内閣を組閣,プア・ホワイトと呼ばれるボーア人労働者を保護するため,いくつかの人種差別法を制定した。大英帝国議会にも出席して南ア連邦の主権を主張している。1929年−1933年第2次内閣を組閣,1933年には大恐慌からの回復のためスマッツ将軍と連合党を結成し,1939年まで第3次,第4次内閣を組閣した。第2次大戦に際しては中立を唱えたが,連合軍側への参戦を主張するスマッツに敗れ辞任,失意のうちに亡くなった。

ヘルツォーク

ドイツその他中世ゲルマン系諸国での爵位。大公と訳される。元来は戦時に部族会議で選ばれる軍司令官のことであったが,やがて官職化し,さらに領地を支配する強大な地位となり,貴族の最高位として定着していった。→爵位

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ヘルツォーク」の解説

ヘルツォーク
James Barry Munnik Herzog

1866~1942

南アフリカ連邦の首相(在任1924~39)。1910年に成立した南アフリカ連邦の親英的政策に反対し,14年に国民党を結成。24年政権の座につくと,親アフリカーナー政策を展開,31年イギリスから自治権を獲得。39年に政敵スマッツに敗れ辞任。

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