ヘンリー(8世)(読み)へんりー(英語表記)Henry Ⅷ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘンリー(8世)」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー(8世)
へんりー
Henry Ⅷ
(1491―1547)

チューダー朝2代目のイギリス王(在位1509~1547)。ヘンリー7世とヨーク家出身のエリザベスElizabeth of York(1466―1503)との間に次男として生まれた。兄アーサーArthur(1486―1502)の早世により、父の王位を継いで即位した。若年時にはルネサンスの学問に少なからぬ関心を示し、トマスモア親交があり、エラスムスとも接触を保った。即位年の6月に亡兄の寡婦キャサリンアラゴンの)Catherine of Aragon(1485―1536)と結婚、スペイン王室との提携を固めようとする父王の願いを満たした。治世の初めには名誉を求める気持ちが強く、フランスの王冠を欲して大陸に兵を進め(1513年8月)、勝利を得たが、諸君主の複雑な駆け引きに災いされて初志を貫徹できなかった。やがて寵臣(ちょうしん)のウルジーがヨーク大司教、枢機卿(すうききょう)、大法官として主君たるヘンリーをしのぐ勢威を示したが、ヘンリーはとりわけイギリス外交を活発に行い、自国地位向上に努力した。だがカール5世と結んでのフランス侵略(1522~1523)はふたたび失敗した。

 ルターの起こした宗教改革運動にヘンリーは反対であり、ローマ教会を守るための一書を著し、教皇から「信仰擁護者」Defensor Fideiの称号を授けられた(1521)。しかし、キャサリンから王子の生まれぬ不満があり、そのうえにアン・ブリンへの恋情が大きく作用して離婚を決意するに至ったが、教皇はこれを承認する態度をとらなかったため、教皇との親密な関係も長く続かなかった。その結果、ウルジーは罷免されてモアが大法官に就任したが、ヘンリーの意を受けて事を実際に推進したのはトマス・クロムウェルであった。1533年ヘンリーとアンとの結婚が実現、1534年「国王至上法」が議会を通過して、ヘンリーはローマ教皇の支配から離脱したイギリス国教会イングランド教会)の最高首長となった。彼は、カトリックの正統性を信じ以上の経過を非としたモア、フィッシャーJohn Fisher(1469―1535)らを容赦なく処刑した。さらに彼は、クロムウェルの策をいれて修道院の解散を断行(1536、1539)、その財産を没収して国庫の充実を実現した。むろんこうした政策への抵抗もあり、その最大なるものが「恩寵(おんちょう)の巡礼」(1536~1537)であったが、その鎮圧後はかえって北部イングランドの帰属が確実なものとなった。

 他方、本来保守的なヘンリーは改革の大幅な前進を好まず、「十か条」(1536)や「六か条」(1539)の制定をもって国教会の前進を抑える歯止めとした。彼の目標は、結局イギリス的カソリシズムの定着にあった。王妃の座を得たアンはエリザベスを生んだが、その後姦通(かんつう)の汚名をもって1536年に処刑され、以後ジェーン・シーモアJane Seymour(1508/1509―1537)をはじめとしてさらに3人が王妃の地位を継承した。また、1540年にはクロムウェルが王の希望を十分にかなええなくなったことによって断罪を受け、彼の亡きあとは側近の顧問会議が王を補佐する状況となり、政治は生彩を失った。なお、スコットランドの完全帰服を実現するため、1542年10月開戦した。これがフランスとの衝突をも招来したが、ついに目的を達成しえなかった。彼は、とくに傑出した君主ではなかったが、ルネサンス君主の典型で、国教会の創設はやはり最大の偉業であり、しかもそれが議会の協力を得て行われ、そのため後の議会の、とりわけ庶民院(下院)の成長に役だつことともなった。

[植村雅彦 2018年1月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android