ベルリーナーアンサンブル(英語表記)Berliner Ensemble

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ベルリーナー・アンサンブル
Berliner Ensemble

ベルリンにあるドイツ民主共和国の国立劇場(劇団)。1949年1月,亡命から帰国したB.ブレヒトは,ドイツ座で妻H.ワイゲル主演の《肝っ玉おっ母とその子供たち》を上演し,その成功をふまえてこの新劇団を結成,同じ年の11月にドイツ座を借りて,《プンティラ旦那と下男のマッティ》から活動は始められた。演出家エンゲル,装置家ネーアー,俳優にブッシュ,ビルト,ゲショネック,ワイゲルギーゼなどを擁し,ブレヒトの作品とブレヒト流に解釈された古典,近代古典を中心にした演目によって,やがて国際的な注目を浴びるようになった。またこの間,ベッソン,モンク,パリッチュ,ウェクウェルトManfred Wekwerth(1929- )らの若手演出家や,フルビツ,ライヒェル,フレルヒンガー,カイザー,ターテ,シャルなどの俳優が生まれた。54年には旧シッフバウアーダム劇場を与えられ,56年のブレヒトの死までに,《母》《コーカサス白墨の輪》《家庭教師》《こわれ甕》などを上演し,公式路線からの批判も,パリ国際演劇祭受賞以後の世界的名声のために弱まり,ブレヒトの変革の認識をめざす新しい演劇の実践が開花した。ブレヒトの死後も,彼が途中まで演出した《ガリレイ生涯》をはじめ,水準の高い舞台を維持し,ワイゲルを中心に後継者たちがブレヒト遺産を継承し,ラングホーフ,カルゲら若い演出家も成長した。69年,水準の維持よりはいわば〈新しい水準〉の追求を企てたウェクウェルトがワイゲルと意見が合わずに去って,女性演出家ベルクハウスRuth Berghausが監督となった。71年のワイゲルの死後,ベルリーナー・アンサンブルはブレヒトのモデルからは外れた実験も行ったが,博物館化,硬直化という批判もされるようになり,また古いメンバーも去って全般に沈滞傾向を示した。しかし,77年,ウェクウェルトが監督に復帰し,演出家テンシェルト,俳優シャル,マイ,リヒターらを中心に,《ガリレイの生涯》の新演出で新しい活動に入った。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のベルリーナーアンサンブルの言及

【国立劇場】より

… ところが,近・現代に登場した比較的新しい国立劇場になると,今ふれた革新の具現化のような場合もあって,概して開場の動機や成り立ちや仕事ぶりなど全体のトーンが,旧来の国立劇場とは異なる。ロシアの〈モスクワ芸術座〉や,旧東ドイツの〈ベルリーナー・アンサンブル〉や,フランスの〈国立民衆劇場〉(略称TNP)や,イギリスの〈ナショナル・シアター〉(略称NT)などがその好例である。 まず〈モスクワ芸術座〉は,19世紀末,マンネリ,商業主義,大芝居化していた当時の演劇界の大勢に抗して,リアルで純正な,演劇ならではの手ごたえをという革新の願いから革命翌年の1918年に生まれたもので,この事情は同時代のドイツの〈マイニンゲン一座〉や,フランスその他での〈自由劇場〉運動と軌を一にしている。…

【ドイツ座】より

…第2次大戦後は東ドイツの国立劇場として,古典劇の受容,現代東ドイツ作家の発見,社会主義リアリズム学習のためのソビエト劇の促進,という三つの路線を掲げて,模索しながら劇場の特色を打ちだしていった。B.ブレヒトの劇場〈ベルリーナー・アンサンブル〉も,現在の劇場を与えられるまでは,ドイツ座に同居していた。いくたの名優が登場したドイツ座は,東西ドイツ統合後もドイツの代表的な劇場の一つである。…

【舞台美術】より

… ドイツの劇作家,演出家B.ブレヒトの作品は一般に,〈叙事演劇〉といわれているが,舞台表現も独自のものをつくり上げている。ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。ネーアーCaspar Neher(1897‐1962),オットーTeo Otto(1904‐68),フォン・アッペンKarl von Appen(1900‐ )らである。…

※「ベルリーナーアンサンブル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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