ホイットマン(英語表記)Walt Whitman

精選版 日本国語大辞典 「ホイットマン」の意味・読み・例文・類語

ホイットマン

(Walt Whitman ウォルト━) アメリカの詩人。伝統的詩型に従わず、愛と連帯、人格主義の思想をうたった。詩集「草の葉」、評論「民主主義展望」など。(一八一九‐九二

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デジタル大辞泉 「ホイットマン」の意味・読み・例文・類語

ホイットマン(Walt Whitman)

[1819~1892]米国の詩人。自由な形式で、強烈な自我意識民主主義精神、同胞愛、肉体の賛美をうたった。詩集「草の葉」、論文「民主主義の展望」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「ホイットマン」の意味・わかりやすい解説

ホイットマン
Walt Whitman
生没年:1819-92

アメリカの詩人。ニューヨーク州ロング・アイランドに生まれ,教育も満足に受けないまま11歳でブルックリンの法律事務所に雇われる。このころから文学を読むことの喜びを知り始めたが,翌1831年に新聞の植字工見習となり,以後ほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で,ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守った。しかしニューヨークの民主党を保守派が支配するようになり,彼は職を失って,新たに結成されたフリー・ソイル(自由土地)党の機関紙《フリーマン》の主筆となる。だが48年の大統領選挙ホイッグ党の候補が当選したために,敗北の衝撃からフリー・ソイル党は総崩れとなり,ホイットマンも49年秋に辞職する。50年代前半は,政治ジャーナリストだった彼が詩人に転身していくいわば胎生の時期である。その具体的な過程をたどることは困難だが,彼がこの時期に政治家の裏切りや腐敗に憤激して書いた数編の詩が,すでにのちのホイットマン詩のリズムや詩法を予告していることから察しても,この転身の〈奇跡〉が政治世界での挫折と深くかかわっていることは確かである。

 のちにアメリカ詩の源流の一つとされる詩集《草の葉》が世に出たのは,55年7月上旬であった。初版はわずか95ページ,著者の名前も見当たらず,冒頭におかれた長い序文に12編の無題詩がつづいていた。しかも文と文を複数個のピリオドがつなぐという独特の句読法が,この詩集の世界の独特な趣をいっそう強めていた。〈何ものも歩みをとどめえず,つねに混沌のままでありつづける溶岩の流れ〉というある研究家の評言どおり,いまや実現を断念した理念が,内攻し,屈折し,いわばそれ自体となって,〈拘束を受けず本来の活力のままに〉歌い出したのである。代表作である《ぼく自身の歌Song of Myself》の一節を引けば,〈ぼくをつなぎとめ押さえつけていた束縛(いましめ)がぼくを離れる……旅ゆくぼくの道づれはぼくの幻想〉なのであり,もはや現実世界の〈束縛〉にはとらわれず,〈ぼく〉は思いのままに〈幻想〉を繰り広げる。

 ところが翌56年に出た第2版は,詩編の数が大幅に増えただけでなく,目次ができ,表題がつけられ,句読法も伝統的なものに変わる。〈本来の活力〉が奔放さをいささか弱め始めたしるしだが,この傾向は第3版(1860)にいたって歴然となる。たとえば新たに加えられた詩群《カラマス》と《アダムの子ら》は,いずれも愛欲の苦しさやせつなさを主題とし,あるいは抒情詩の代表作《はてしなく揺れ動く揺籠(ゆりかご)から》も,愛の対象を失った者の悲嘆とその意味を歌い上げて,新しい詩境を創出した。詩人個人の愛情の危機とともに,迫りくるアメリカ社会の分裂の危機が影を落としているのだろう。南北戦争の勃発は詩人を悲嘆の淵から立ち直らせ,《軍鼓の響き》(1865)詩群を書いて合衆国の未来のための奮起を呼びかけさせた。60年12月に弟が負傷したとのうわさを聞いてバージニア戦線に急行し,弟の傷は予想よりも軽かったがホイットマンはそのまま残り,やがてワシントンの病院に足しげく通って若い負傷兵たちの看護に当たる。リンカン大統領の死を素材とする挽歌《先ごろライラックが前庭に咲いたとき》(1866)に明らかなように,戦後のアメリカに寄せる詩人の危機感は並々でなく,とくに論文《民主主義の将来》(1871)は,物質主義の優勢を嘆き〈人格主義〉の必要を訴えた。73年に中風のため半身が麻痺してからは,ニュージャージー州キャムデンに引きこもり,徐々に高まる名声とはうらはらに絶望を深めていくが,死の床でも《草の葉》第9版刊行の努力を怠らなかった。日本では夏目漱石の論文(1892)を皮切りに,とくに有島武郎,柳宗悦ら白樺派を中心に広く親しまれてきたが,その受容はデモクラシーの預言者,民衆詩人などの側面にかたよりすぎたうらみがある。
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ホイットマン
Charles Otis Whitman
生没年:1843-1910

アメリカの動物学者。メーン州出身。苦学してボードン大学を卒業し(1868),ボストンの高校の副校長在任中にドイツへ留学した。1875年ライプチヒ大学のロイカルトRudolf Leuckartのもとで学び,78年に帰国。翌年E.S.モースの推薦を受けて東京大学に着任し,2年間動物学を教えた。佐々木忠次郎岩川友太郎,飯島魁(いさお),石川千代松は彼の教え子である。離日後ナポリの臨海実験所でドールンA.Dohrnに師事し,その後ハーバード大学助手,ミルウォーキーの臨湖実験所所長,クラーク大学教授,シカゴ大学教授を務めた。またウッズホール海洋生物学研究所の所長も兼務し88年の創設から11年間同研究所の基礎固めに努力した。

 彼の動物学への寄与は次の3分野に大別することができる。(1)発生学 ヒルの初期発生について行った細胞系統の研究は,この分野における先駆的論文で,彼の同僚であるウィルソンE.B.Wilson,コンクリンE.G.Conklin,リリーF.R.Lillieらウッズホール海洋生物学研究所のメンバーによってその研究は継承された。(2)進化論 ダーウィンの自然淘汰説をド・フリースの突然変異説やアイマーTheodore Eimerの定向進化論といかに調和させるべきかを模索した。(3)動物行動学 ヒル,両生類有尾目の動物,ハトの行動を研究することにより本能と知能の起源を解明しようとした。彼はこの研究を通して固定行動型fixed action patternの存在を認め,N.ティンバーゲンやK.ローレンツによって確立された固定行動型の研究の先駆をなした。また本能は進化するものと考え,いかにも発生学者らしく下等動物から高等動物へ至る系統的研究を強調した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホイットマン」の意味・わかりやすい解説

ホイットマン
Whitman, Walt(er)

[生]1819.5.31. ニューヨーク,ウェストヒルズ
[没]1892.3.26. ニュージャージー,カムデン
アメリカの詩人。大工を兼業とする農家に生れ,4歳のときにブルックリンに移り,1830年公立学校を中退,法律事務所や医師の使い走り,印刷工,小学校の教師などをし,41年から新聞記者となる。民主党系のいくつかの新聞の編集にたずさわり,党内の保守層と対立,左派の結成した自由土地派に加わったが,やがて政治の世界に幻滅した。この頃,大都会ニューヨークの民衆の生活に絶えず触れ,民主主義に対する信頼を深めた。 55年7月,本文 95ページ,序文と 12編の無題詩から成る詩集『草の葉』 Leaves of Grassを出版。伝統的な詩とはまったく違う奔放な詩法と内容のため,エマソンらには絶賛されたものの,一般にはあまり受入れられなかったが,特にのちの版で「僕自身の歌」 Song of Myselfと名づけられる詩篇は,詩人の自我が拡大し,あらゆるものと合一してゆく,代表作である。この詩集は,以後死ぬまで改訂や増補を加え,9版を数える。第2版以降,肉体を賛美する詩が多くなり,第3版で加えられた「アダムの子供たち」 Children of Adamは異性間の,「カラマス」 Calamusは同性間の愛情を歌っている。南北戦争勃発とともに負傷兵の看護にあたり,『軍鼓の響き』 Drum-Taps (1865) やリンカーン大統領暗殺の際の「先頃ライラックの花が前庭に咲いたとき」 When Lilacs Last in the Dooryard Bloom'd (66) など,死に関する詩も多い。 71年には民主主義の未来像を述べた『民主主義の展望』 Democratic Vistasを発表,人格的な要素を欠いた民主主義の現状を批判した。ほかに『自選日記』 Specimen Days and Collect (82) などがある。その躍動する詩型はのちの自由詩運動に,また自我の拡大による生の享受の姿勢は,T.ウルフ,H.ミラーらに影響を及ぼした。

ホイットマン
Whitman Corp.

アメリカ合衆国のかつての複合企業持株会社。1962年にイリノイ・セントラル・インダストリーズとして設立。1975年にアイシー(IC)・インダストリーズと改称。1988年ホイットマンに社名変更。ソフトドリンク事業のペプシ=コーラ・ゼネラル・ボトラーズの持株会社として発展。1988年に同社の起源でもあるイリノイ・セントラル・ガルフ鉄道を切り離し,食品部門を強化した。空調・冷蔵設備製造のハスマン,チェーン店を利用して自動車の部品販売やサービスを行なうマイダス・インターナショナルも傘下に擁していたが,1998年分離した。2000年同業のペプシアメリカズを買収し,翌 2001年社名をペプシアメリカズに変更した。2009年ペプシコの完全子会社となった。

ホイットマン
Whitman, Marcus

[生]1802.9.4. アメリカ,ニューヨーク,ラッシュビル
[没]1847.11.29. アメリカ,ワシントン,ワイラトプ
アメリカの医師,会衆派教会宣教師。オレゴン地方の開拓者。宣教師団の一員として北西部地方の先住民族であるフラットヘッド族ネズ・パース族インディアンに耕作,製粉業,灌漑法などを教え医療に従事。みずから馬で大陸を横断して首都ワシントン D.C.におもむき開拓地の実情を訴え,白人開拓団を引率してオレゴンのコロンビア川流域への入植を指導した。 1847年麻疹 (はしか) の流行にあったカイユーズ族が,白人が病気を広めていると信じて来襲。彼は夫人とともに殺害された。

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百科事典マイペディア 「ホイットマン」の意味・わかりやすい解説

ホイットマン

米国の詩人。ロング・アイランドの大工の子に生まれ,多くの職業につく。エマソンの著作に刺激され,1855年初版《草の葉》を発表して反響を呼んだ。南北戦争が始まると,奴隷制に反対して傷病兵の看護に努め,予言的な戦争詩集《軍鼓の響き》(1865年)をまとめる。未来への確信にみちた文学論《民主主義の将来》(1871年)を出版した後は《自選日記》(1882年)を書き,静かな晩年を過ごした。個人主義と民主主義,同性愛的同胞愛,肉体賛美と神秘主義といったテーマを大胆な自由詩形でうたいあげ,アメリカ詩の伝統の大きな潮流をつくりあげた。
→関連項目有島武郎キャムデンギンズバーグ自由詩富田砕花ペソアマーク・トウェーン

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朝日日本歴史人物事典 「ホイットマン」の解説

ホイットマン

没年:1910.12.6(1910.12.6)
生年:1842.12.14
明治期に来日したお雇い外国人。アメリカ人動物学者。メーン州に生まれ,苦学して動物学を学ぶ。ドイツ留学(1875~78)後にモースの紹介で来日,明治12(1879)年から2年間東大教授として,当時最先端の顕微鏡技術や解剖手技を教えた。教育方針は研究至上的なドイツ流だった。日本の社会や文化にさほどの足跡は残さなかったが,帰米後は発生学で次々に業績を挙げ,1888年にウッズホール臨海実験所の初代所長となり,同所が世界一の臨海研究施設に育つ土台を作った。動物行動学や遺伝学でもパイオニアのひとりといわれる。

(磯野直秀)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ホイットマン」の解説

ホイットマン Whitman, Charles Otis

1842-1910 アメリカの動物学者。
1842年12月14日生まれ。ドイツのライプチヒ大に留学,のちE.S.モースの推薦により,明治12年(1879)東京大学動物学教授として来日。石川千代松(ちよまつ)らをそだてた。14年帰国し,シカゴ大教授などを歴任。生年に1843年12月12日説がある。1910年12月6日死去。67歳。メーン州出身。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホイットマン」の解説

ホイットマン
Walt Whitman

1819~92

アメリカの詩人,ジャーナリスト。詩集『草の葉』(1855~92年)は伝統的な詩法を退け,自由詩によって強烈な個性の表出と民主主義の賛美をうたったもので,アメリカ詩の源流をなす。南北戦争後は社会の物質主義的風潮に危機感を募らせる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ホイットマン」の解説

ホイットマン
Walt Whitman

1819〜92
アメリカの詩人
貧農に生まれ,諸種の職業に携った。庶民の希望や感情を自由詩形で表現し,民主的平等と人間愛の精神を唱えた。著書は詩集『草の葉』。

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367日誕生日大事典 「ホイットマン」の解説

ホイットマン

生年月日:1842年12月14日
アメリカの動物学者
1910年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のホイットマンの言及

【アメリカ文学】より

…彼に親炙(しんしや)したソローは,エマソンの説を自ら森の中の生活によって実践,その記録《ウォールデン》(1854)で物質主義化したアメリカに警鐘を鳴らした。またホイットマンは詩集《草の葉》(初版1855)で,あらゆるものの中に聖なるものを見るエマソン思想を発展させ,アメリカとアメリカの人間の生命を力強くうたった。この間,超越主義の仲間に一時は加わりながらもピューリタンの伝統に立つところの多かったホーソーンは,《緋文字》(1850)などによって人間の心に秘められた罪の意識の諸相を探り,心理のひだを象徴的に描いた。…

【草の葉】より

…アメリカの詩人ホイットマンの詩集。1855年に出た初版はわずか12編の無題詩から成る95ページの本だったが,以後版を改めるごとに新しい詩が加えられ,最後の第9版(1892)には402編が収められている。…

【男色】より

… また近代文学の大家たちの男色傾倒は壮観というほかない。プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。…

【民主主義】より

…奴隷解放論争において特徴的なことは,リンカン大統領も含めて解放論者の側に,自由,正義,人道への訴えはあっても民主主義への訴えが必ずしもなく,むしろ奴隷制擁護論者の側に,アリストテレスをまねた,自然的優者間の自由・平等体制としての共和主義と民主主義という主張がみられたことである。しかし,民主主義の国民的理念化の努力は南北戦争後も続けられ,W.ホイットマンの《民主主義の展望》(1871)を生み出すこととなった。ホイットマンは,R.W.エマソン,H.D.ソローらいわゆる超越主義者(トランセンデンタリズム)の影響を受けながら,自由,平等,自治などに加えて,真の人格の発展,絶対的良心,愛のある同僚精神などを民主主義の精神原理の中に加え,この理想主義的民主主義概念を,南北戦争によって社会原理としては破産にしたピューリタニズムに代えて,新しい統一アメリカの理念にしようとした。…

※「ホイットマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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