ボロトニコフの乱(読み)ボロトニコフのらん

改訂新版 世界大百科事典 「ボロトニコフの乱」の意味・わかりやすい解説

ボロトニコフの乱 (ボロトニコフのらん)

ロシア最初の農民戦争(1606年夏~07年10月)。イワンボロトニコフIvan Bolotnikov(?-1608)に指導された。〈スムータ〉の重要な要因となるこの反乱は,16世紀以来急速に強化されてきた農民とホロープ(奴隷)に対する抑圧への反抗として起こった。ボロトニコフは従軍ホロープ出身で,数奇な運命を経て故国に帰り,北ウクライナのコマリツカヤ郷に起こった反農奴制民衆運動の指導者となり,シュイスキー政権打倒を旗印にし,士族の一部をもその陣営に引き込んだ。しかし,1606年10~11月のモスクワ攻略戦では,士族が離脱して反乱は失敗し,ボロトニコフは南のトゥーラに退いた。政府は07年3月に二つの法令で,ホロープに有利な措置をとり,他方,士族の要望をいれて逃亡農民連れ戻しの期限を15年に延長した。そのうえで,07年5~10月のトゥーラ攻防戦でようやく反乱を鎮圧した。ボロトニコフは08年に盲目にされ,水死の刑に処せられた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボロトニコフの乱」の意味・わかりやすい解説

ボロトニコフの乱
ぼろとにこふのらん

1606~07年のロシアの農民反乱。ワシリー4世治下に、1606年7月、ボロトニコフИван Исаевич Болотников/Ivan Isaevich Bolotnikov(?―1608)が農民やコサック、都市貧民や士族からなる大軍を組織してロシア南部で反乱を起こし、同年10月にはモスクワに迫るに至った。2か月の攻囲にもモスクワは落ちず、その間、ボロトニコフは地主商人の打倒を呼びかけ、農民、奴僕(ぬぼく)に土地を与えることを約した。地主である士族たちは皇帝側に走り、皇帝軍は反乱軍をモスクワ近郊に破り、カルガからトゥーラへ退却させ(1606年12月)、翌年皇帝軍が4か月トゥーラを包囲して、10月ボロトニコフ軍を屈服させた。この間広く各地に農民の蜂起(ほうき)がみられ、ワシリー政権に大きな脅威を与えた。ボロトニコフら反乱の首謀者は処刑された。

[伊藤幸男]

『阿部重雄著『帝政ロシアの農民戦争』(1969・吉川弘文館)』

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