マラトンの戦い(読み)まらとんのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マラトンの戦い」の意味・わかりやすい解説

マラトンの戦い
まらとんのたたかい

ペルシア戦争第1回遠征(前490)中の戦闘ペルシアダリウス1世の派遣した遠征軍は、エーゲ海を横断し、エウボイア島のカリストス、エレトリア両市を攻略したのち、アテネの北東海岸マラトンMarathonの野に上陸した。その報に接したアテネは、名将ミルティアデスの即時応戦案を採択し、約1万の重装歩兵を急行させた。プラタイアイから援軍約1000人が合流し、数日間対峙(たいじ)したのち、アテネ軍は駆け足で攻撃し、数的に勝るペルシア軍を敗走させた。退却したペルシア軍は乗船してスニオン岬を回ってアテネ市を突こうとしたが、相手方が強行軍で帰還したために果たせずして引き揚げた。この戦闘によって、アテネの底力が広く認められた。

 なお、マラソン競技の由来はこのマラトンの戦いに関連する。アテネの飛脚フェイディッピデスPheidippides(またはフィリッピデスPhilippides)は、援軍依頼のためスパルタまで230キロメートル以上を2日で疾走した。ここから彼が「マラトンの戦いの勝利をアテネに急報するために険路を走破した」との故事が生まれ、マラソン競技が行われるようになった。

[豊田和二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マラトンの戦い」の意味・わかりやすい解説

マラトンの戦い
マラトンのたたかい
Battle of Marathōn

ペルシア戦争中,ギリシア軍がアッチカ北東部のマラトンで,アケメネス朝のペルシア軍を大敗させた戦闘。前 490年9月マラトンの南海岸に上陸したペルシアの大軍約2万 5000に対し,アテネはミルチアデスの提案により約1万の重装歩兵 (ホプリタイ ) を送った。プラタイアイの援軍 1000を得て,ミルチアデス指揮下のギリシア軍はペルシア軍と戦いを交えて勝った。ペルシア軍は船へ逃げ戻り,アテネ市へ向ったが,アテネ軍が陸路をとってただちに市へ戻ったことを知り,攻撃をあきらめて自国へ引返した。ペルシア軍が 6400人の兵士を失ったのに対し,ギリシア側の死者はわずか 192人だったといわれている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マラトンの戦い」の解説

マラトンの戦い(マラトンのたたかい)
Marathon

前490年,ヒッピアス案内アッティカ北岸に上陸したダレイオス1世の大軍と,アテネ重装歩兵との間で戦われた歴史的合戦ミルティアデス指導もとに,アテネは独力で敵を撃退した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

とっさの日本語便利帳 「マラトンの戦い」の解説

マラトンの戦い

ペルシャ戦争中の前四九〇年、アテネ北東のマラトン海岸に上陸したペルシャ軍を、アテネ重装歩兵が打ち破った戦い。勝利を伝えるべく走り続け、報告後に絶命した兵士の故事が、競技マラソンの起源とされる。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「マラトンの戦い」の解説

マラトンの戦い
マラトンのたたかい
Marathon

ペルシア戦争中の前490年の戦争
ミルティアデスの率いるアテネ重装歩兵軍が,マラトンに上陸したアケメネス朝の大軍を撃破した。マラトンはアテネの北岸。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android