ムスリム同胞団(読み)ムスリムドウホウダン(英語表記)Ikhwān al-Muslimīn

デジタル大辞泉 「ムスリム同胞団」の意味・読み・例文・類語

ムスリム‐どうほうだん〔‐ドウハウダン〕【ムスリム同胞団】

1928年、エジプトで結成されたイスラム教社会運動の団体。コーランを憲法とする国家の建設を主張。エジプト最大の政治団体となったが、ナセル狙撃事件を機に1954年に解体。その後、1970年代に組織を再建し、アラブ諸国で活動を続けている。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ムスリム同胞団」の意味・読み・例文・類語

ムスリム‐どうほうだん ‥ドウハウダン【ムスリム同胞団】

一九二八年、エジプトで結成されたイスラム復興をめざす大衆的団体。コーランを憲法とする国家の建設を主張。エジプト最大の政治団体となったが、ナセル狙撃事件を機に、五四年に解体させられ、本拠を国外に移して、アラブ諸国で活動。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ムスリム同胞団」の意味・わかりやすい解説

ムスリム同胞団 (ムスリムどうほうだん)
Ikhwān al-Muslimīn

20世紀エジプトで生まれたイスラム宗教社会運動の団体。ハサン・アルバンナーを中心に秘密結社として1929年4月イスマーイーリーヤで結成,33年,本部はカイロに移った。30~40年代を通じてしだいに都市の労働者,職人,小商人,学生の間に拡大し,公然たる運動となった。現代生活の全局面でのイスラムの徹底化を主張し,コーランを憲法とするイスラム国家の建設と社会的正義(アダーラ)の実現とを要求し,ウンマの内側に生じた腐敗・堕落を排撃して,巨大な大衆動員力をもつ政治・社会団体となった。核→細胞→家族→軍団と積み上げられるピラミッド型の集権的組織をもち,各レベルにナキーブ(指導者)が置かれ,頂点に立つハサン・アルバンナームルシド(導師,団長)として統轄した。イルティハーム(結び)の儀式を伴う秘密の入団式があり,団員の昇級には身体検査を含む試験と,各レベルごとの特定の訓練および宣誓とが要求された。クラブ,成人学校,モスクをもち,労働組合と婦人運動に積極的に進出し,青少年組織とスポーツ団体を掌握,商事・紡織・出版等の企業を運営し,宣伝(パンフレットの大量印刷,拡声器による街頭扇動,ラジオ放送)を重視した。38年,第5回総会は自らを〈サラフィーヤ(イスラム純化運動),正しき道,タサッウフの実現,政治団体,体育グループ,科学文化協会,企業体,社会的理想〉と規定した。公然活動のほかに秘密機関をもち,地下軍事組織をも建設した。

 第2次世界大戦後,首相,蔵相,警視総監ら要人の暗殺や爆破事件などテロ活動を組織し,反イスラエル・反英のジハード運動に大衆を動員し,52年の自由将校団クーデタに至る革命情勢を醸成した。しかしこの間,49年ハサン・アルバンナーを継いで団長となったハサン・イスマーイール・アルフダイビーのもとで,指導部に分裂が進行した。ムハンマド・アルガッザーリーMuḥammad al-Ghazzalīやサイイド・クトゥブSayyid Quṭb(1906-66)らの著作活動はむしろこの時期の理論的統一の希求を示す。同胞団と密接な関係にあったサーダートらを擁する自由将校団は,権力掌握直後は微妙な対同胞団政策をとったが,54年1月解散令を発し,同年10月ナーセル狙撃事件を機に弾圧に踏み切り,これを解体した。しかし大衆意識の中にその思想的影響力は強く残り,内外(解体後,活動の本拠はサウジアラビアに移る)で再組織の企てが持続した。こうして脱ナーセル化の過程を経た76年6月,その機関誌《ダーワal-Da`wa(呼びかけ)》が復刊され,活動の再開が事実上公認されるに至った。シャリーアの実施要求やイスラエルとの平和条約への反対などについては政府に対して批判的に振る舞うことが容認された。この段階では,タクフィール・ワルヒジュラal-Takfīr wal-Hijra,ジハード団al-Jihād,イスラム集団al-Jamā`a al-Islāmīyaなど新世代の諸地下運動が生じてきて,それらからの批判と突き上げにさらされるようになったが,一方81年秋サーダート大統領暗殺事件前後の広範囲な政治弾圧のもとでは,その対象の一つともされた。しかし同胞団は企業活動・金融・教育・医療・福祉など多方面の社会活動を展開し,法律家,医師,エンジニアなどの諸職能組織に浸透して指導権を握るほどになっただけでなく,87年には議会にも進出した。地下の急進的イスラム運動に武力弾圧を加えてきたムバーラク政権は,93年以降は同胞団に対しても社会的規制と政治的抑圧を強化するようになった。利子を生む経済活動や酒類販売の禁止を要求するなどイスラム法の実施を目指すムスリム同胞団は,大衆のイスラム化と体制批判の包括的基盤となっているからである。

 1937年ダマスクス支部設立をはじめとして,同胞団はパレスティナ,ヨルダン,スーダン等,他のアラブ諸国にも拡大していったが,第2次世界大戦を通じて自立的組織となったシリアの同胞団は,そこでの一政治勢力としての位置を占め,シリア北部,ことにアレッポを中心に,エジプトとの統合への,次いでバース党体制への批判者となった。パレスティナ人の間では,ムスリム同胞団は,87年末からのインティファーダのもとでアフマド・ヤシーンを精神的指導者とするハマース(〈イスラム抵抗運動〉の略称)の運動へと展開した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ムスリム同胞団」の意味・わかりやすい解説

ムスリム同胞団【ムスリムどうほうだん】

エジプトのイスラム運動団体。イスラム同胞団とも表記される。近代のイスラム改革運動家ムハンマド・アブドゥフの思想の流れに連なるハサン・アルバンナーが1928年にイギリス支配下のエジプトで結成。イスラムのシャリア(法)にもとづく実践,すなわち社会の連帯,および社会・国家におけるイスラム支配の確立を説いた。ハサン・アルバンナーは,病院設立,労組結成,就職斡旋,貧困者への金銭援助などの奉仕活動を展開し,人々の支持を拡げていった。出版,鉄鋼,繊維などの企業も経営し,1940年代末には数十万人の巨大組織に成長,アラブ諸国に支部が拡がった。エジプトでは1940年代に最大の大衆政治運動に発展したが,1949年には創始者ハサン・アルバンナーが暗殺され,地下組織化した過激グループはゲリラ活動に転換し,非合法化・合法化がくりかえされて組織は分裂状態に陥った。1954年のナセル暗殺未遂事件で再び非合法化され,ナセル政権下(1956-1970)で影響力を失っていたが,その後アラブ世界でイスラム復興運動が高まるなか,ふたたび影響力を増して,合法的な政治活動を着実に進め,1984年,ムバーラク政権下の人民議会選挙で他党との連合によって初めて議席を獲得。その後議席数を増やし,2005年の選挙では88議席を獲得,最大野党となったが,ムバーラク政権は弾圧を強め,その後の選挙では大幅に議席を減らした。しかし同胞団は都市部から農村部まで張り巡らされた強固な草の根ネットワークを築いており,2011年,〈アラブの春〉をきっかけに生じた革命的な状況で,ムスリム同胞団を母胎として,モルシを党首に自由と公正党を結成,モルシは,2012年5月の大統領選に立候補。第1回目投票で1位となり,決選投票で,シャフィーク(元首相)を破って当選した。モルシ大統領は,ムバーラク退陣以降の国内混乱を収拾し軍最高評議会からの民政移管と,イスラム勢力と世俗勢力のバランスを必須とするエジプトの民主化を前進させる改革に着手,軍が制定した暫定憲法を破棄し軍幹部を解任,大統領権限を強化する新たな暫定憲法を制定した。11月にはさらなる権限強化となる新条項を発表,これに対して反大統領派が各地で抗議活動を展開したため撤回を余儀なくされたが,2013年3月,大統領任期の制限や立候補資格の拡大などを盛り込んだ憲法改正案の国民投票で賛成77%(投票率41%)を獲得。完全な民政移管のレールを敷くことに成功した。穏健派とはいえ厳格なシャリア(イスラム法)の実践を唱えるムスリム同胞団と,それを母胎とする政権与党の自由と公正党は,世俗イスラムの勢力が強いエジプトで安定的な政治的多数を獲得できないという見方は内外に根強く存在したが,ムバーラク長期独裁政権崩壊後のエジプトの混乱を早期に収拾しつつあるという評価が高まっていた。しかし,2013年6月30日のモルシ大統領就任1周年を機に,全国各地で大規模な反ムスリム同胞団の民衆デモが発生したのに応じ,国軍が介入して事態は急転。軍は7月3日クーデターでモルシ大統領を解任,〈アラブの春〉に始まるエジプトの民主革命は,選挙によって選出されたモルシ大統領が軍のクーデターによって解任される,というあっけない幕切れとなった。モルシ大統領は軍に拘束され,〈殺人扇動罪〉で逮捕された。軍事政権は2013年12月ムスリム同胞団をテロ組織に指定,正式に非合法化し,徹底弾圧に乗り出した。軍事政権による幹部の逮捕,裁判での死刑判決が相次いでいる。ムスリム同胞団が弾圧に抗して過激化し,エジプトが中東情勢のさらなる不安定要因となるか注目されている。ムスリム同胞団の一部はイスラム過激派組織と合流しているともされる。ムスリム同胞団系の組織には,他にスーダンの〈民族イスラム戦線〉(NIF),パレスチナハマースレバノンの〈イスラム集団〉などがある。
→関連項目イスラム復興運動エジプトエジプト革命サイイド・クトゥブモルシ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムスリム同胞団」の意味・わかりやすい解説

ムスリム同胞団
むすりむどうほうだん
Muslim Brotherhood

アラブ諸国で、イスラム教の宗教的価値観に沿って社会を改革し、西洋支配から脱することを目標に活動している組織。イギリスの間接支配下にあったエジプトのイスマイリアで、1928年に教育者ハサン・アルバンナーasan al-Bannā(1906―1949)によって結成された。当初は労働者や学生らが参加した政治結社で、病院設立、教育提供、貧困層援助などの慈善活動に力を入れ、草の根の支持を広げた。1940年代以降、周辺イスラム諸国に支部を設け、中東全体に影響を及ぼすようになった。しかし、1954年にエジプトのナセル大統領に弾圧されて以来、歴代政権から弾圧され、長く非合法・野党勢力であった。このため、団員数などは秘密にされているが、幹部は学者、医師、企業経営者らが多い。2010年末から広がったアラブ世界の民主化運動(「アラブの春」)では、反政府デモに参加するなど大きな役割を果たした。エジプトではムバラク政権が倒れた後、合法組織となり、2012年、ムスリム同胞団が擁立したムハンマド・ムルシMuammad Mursi(1951―2019)がエジプトの大統領に就任した(2013年失脚)。

 エジプト以外の国々では、トルコで2002年にムスリム同胞団に似た穏健派の公正発展党が政権につき、モロッコでも2011年にトルコを手本とする穏健派の公正と発展党が第一党になった。チュニジアでは2011年末、ムスリム同胞団の流れをくむイスラム政党エンナハダ中心の政権が生まれている。一方、ムスリム同胞団を母体とするパレスチナのハマスはイスラエルに対して武闘路線をとっており、またシリアのムスリム同胞団はアサド政権に対抗する反政府勢力の中心である。このためムスリム同胞団は国によって穏健派から強硬派までさまざまな側面をもっている。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムスリム同胞団」の意味・わかりやすい解説

ムスリム同胞団
ムスリムどうほうだん
al-Ikhwān al-Muslimūn; Muslim Brotherhood

イスラム教の国際的な宗教・政治組織。道徳的腐敗や不平等の拡大を排撃し,『コーラン』や『ハディース』などの教えに立ち返って理想的な現代イスラム国家を建設することを主張する。1928年エジプトイスマーイーリーヤでハサン・アル・バンナーによって創設され,1930年代に宗教,教育に重点を置き,社会活動を通じて成員を急増させた。1930年代後半に政治運動を始め,第2次世界大戦中はエジプトの政権党だったワフド党に対抗。エジプト政府に解散を迫られると 1948年に首相を暗殺した。まもなくハサン・アル・バンナーも殺害されたが,これは政府による暗殺とみられている。エジプト革命後,1954年にガマル・アブドゥル・ナセル大統領の暗殺を企てたが失敗,弾圧を受け,以来合法化と非合法化を繰り返している。1960~70年代を通じほぼ秘密裏に活動。1980年代イスラム諸国で生じたイスラム復興運動(→イスラム原理主義)のなかで組織を改変,反欧米を掲げ,勢力を盛り返して 1980年代半ばからエジプトや中東諸国の議会で議席を獲得し始めた。2011年民主化運動「アラブの春」のなかでエジプトのムバラク政権が倒されたのち,自由公正党を設立して政治参加,2012年同党のムハンマド・モルシが大統領に就任した。しかし 2013年の軍事クーデターでモルシが解任され,まもなくムスリム同胞団も非合法化された。創設以来,エジプトのほか,スーダンシリアパレスチナレバノン,北アフリカ諸国などに拡大しており,各地で影響力をもつ。1987年にはパレスチナのイスラム原理主義組織ハマスがムスリム同胞団のメンバーらによって設立された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

知恵蔵 「ムスリム同胞団」の解説

ムスリム同胞団

エジプトを中心に活動する穏健派のイスラム原理主義組織。1928年、サラフィーヤ主義(復興主義)の影響を受けたハサン・アル・バンナーが、スエズ運河沿いのイスマイリアで設立した。当地は、事実上イギリスの支配下にあり、イスラムの弱体を憂えたバンナーは、その教えの原点に立ち戻り、民衆にシャリア(イスラム法)の実践を説いた。そして病院設立、労組結成、就職斡旋、貧困者への金銭援助など、様々な奉仕活動を展開し、多くの人々を引きつけていった。また、出版、鉄鋼、繊維などの企業も経営し、40年代末には数十万人の巨大組織に成長させた。やがて政治参加も要求するようになり、そのネットワークは周辺のアラブ諸国にも拡大していった。しかし、それを脅威とする政府によって非合法化され、49年には創始者バンナーが暗殺される。その間、一時合法化されたものの、組織は分裂状態になり、地下組織化した一部の過激分子がゲリラ活動に走った。なお、パレスチナのガザ地区で強い支持を得るハマス(87年結成)も、同地区のムスリム同胞団を母体とする。
その後、54年のナセル暗殺未遂事件を契機に再び非合法化され、ナセル大統領の政権下(56~70年)、次第に影響力を失っていった。しかし70年代以降、アラブ世界でイスラム復興運動が高まるなか、組織を整えた同胞団は社会奉仕活動を再開し、合法の範囲内での政治活動も進めていった。ムバラク政権下の84年の人民議会選挙では、合法の他党との連合によって初めて議席を獲得。その後着実に議席数を増やし、内外の民主化圧力の下で実施された2005年の選挙では88議席を得て、与党・国民民主党(NDP)と対抗できる最大野党になった。しかし、原理主義派の膨張を恐れる当局の弾圧が始まり、その後の選挙では大幅に議席を減らしている。
現在、同胞団は都市部から農村部まで張り巡らされた草の根ネットワークを持ち、エジプト国民の2~3割の支持者がいると見られる。ムバラク後の国政に大きな役割を担うことを期待する声がある一方、宗教と政治の一体化が進むことに拒絶反応を示す国民も少なくない。とりわけ世俗志向の若者の間には、穏健派とはいえ厳格なシャリアの実践を唱える思想に反発を持つ者が多いと見られる。また、リアルな外交・政治の運営能力も不透明で、国政を担うにふさわしいカリスマ的指導者の不在も指摘されている。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2011年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ムスリム同胞団」の解説

ムスリム同胞団
ムスリムどうほうだん
Ikhwān al-Muslimīn

スンナ派イスラーム世界に広がるイスラーム原理主義組織
1929年エジプト人のハサン=アルバンナが中心となって創設。『コーラン(クルアーン)』を憲法とするイスラーム国家の建設と,社会生活におけるイスラーム原理主義の実践をめざす。この考えは,アラブ諸国をはじめとするスンナ派世界に影響力を拡大。反イスラエル,反英ジハードの煽動にあたり,パレスチナ戦争とエジプト革命の際にも最大の大衆動員力を発揮した。母組織ともいえるエジプトの同胞団は,1954年に一時解散させられたが,ナセル政権(1956〜70),サダト政権(1970〜81)の弾圧を生き延び,81年には同胞団の影響下の原理主義者が大統領サダトを暗殺。その後のムバラク政権(1981〜  )によって脅威とされ,弾圧を強化されている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ムスリム同胞団」の解説

ムスリム同胞団(ムスリムどうほうだん)
Ikhwān al-Muslimīn

エジプトで生まれた史上初のイスラーム大衆運動。1928年にハサン・アルバンナーが創設し,40年代にはエジプト最大の大衆的政治組織へと成長した。その後はエジプト政府と対立してバンナー自身が暗殺され,54年以降ナセル政権の大弾圧にあうなど苦難の道を歩んだが,70年代サダト政権のもとで復活。現在もイスラーム運動としてアラブ世界最大の勢力を誇っている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のムスリム同胞団の言及

【シリア】より

…その代表は,宗教と国家を分離しシリア主義を唱えファシズムに影響されたサアーダの率いるシリア民族主義党(PPS)と,アラブの統一を基本命題としミシェル・アフラク,サラーフ・ビタールの率いるバース党である。また,イスラム教徒のムスリム同胞団や,クルドやキリスト教徒などに支持を得た共産党も活動を展開していた。 46年の独立以後は,フランス委任統治時代に導入された議会民主制のもとで政党政治が行われ,ナショナル・ブロックから分裂した人民党や国民党が政権を掌握し,伝統的支配者や商・工業ブルジョアジーによる門閥支配,金権政治が展開された。…

【スーダン】より

…72年3月ヌメイリーは,南部の反政府勢力アニャニャAnya Nyaとの間にアジス・アベバ協定を結んで,独立以来続いてきた内戦に終止符を打ち,南部自治政府を認めた。また74年には,イスラム諸勢力の結集した反政府国民戦線とも和解,ムスリム同胞団勢力をヌメイリー政府に入閣させた。83年9月,同胞団の主導でイスラム法(シャリーア)が導入された。…

※「ムスリム同胞団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android