ムバラク(読み)むばらく

知恵蔵 「ムバラク」の解説

ムバラク

1981年に就任し、2005年に5選を果たしたエジプト大統領。1928年、エジプト北部ナイルデルタのメヌーフィヤ(Monufia)県に生まれる。陸・海軍の両士官学校を卒業後、軍で順調に昇進を続け、72年には空軍最高司令官に任命された。
ムバラクが注目を浴びたのは、翌73年の第4次中東戦争(十月戦争)である。同じく軍出身サダト大統領の下、イスラエルへの奇襲攻撃を成功させ、一躍国民的英雄となった。その後、イスラエルの猛反撃を受け、エジプトは劣勢のまま停戦合意を受け入れるが、緒戦アラブ共通の敵イスラエルの不敗神話を打ち砕いたことは、国家の威信を大いに高めることとなった。しかしこの戦争の後、サダト大統領はそれまでの社会主義陣営との協調から、資本主義陣営との協調に舵(かじ)を切ることになる。50年代旧ソ連に留学した経験を持つムバラクも、サダトの経済開放政策・欧米追随政策に従い、75年には事実上の後継者として副大統領に任命された。イスラエルと平和条約(79年)を結んだサダト大統領が、それを不満とするイスラム過激派によって81年に暗殺されると、ムバラクは大統領に就任。同時にテロ対策を名目とした非常事態令を発令し、政治活動の自由を制限した。この非常事態令は欧米の批判を受けながらも、2011年1月現在まで継続されている。
これまでムバラク政権は、周辺アラブ、イスラエル、欧米諸国の国際的緊張の上で、微妙なバランスを保ちながら存続してきた。外交では1989年にアラブ連盟に復帰しながらも、欧米諸国に強く同調。91年の湾岸戦争の際には、反イラクの姿勢を明らかにし、多国籍軍にも参加している。中東和平交渉の重要なパイプ役として、国際社会とりわけアメリカの信頼は厚い
一方、内政では軍と警察による強権支配を続け、「イスラム団」などのイスラム過激派だけでなく、穏健なイスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」も国政から排除した。これはアメリカの意向と重なるものであり、約30年間にわたる長期独裁が国際社会から黙認されている理由の一つと指摘される。過激な原理主義の台頭を封じ込め、長年他国と戦火を交えず、アラブの盟主としての地位を築き上げた功績を支持する国民は少なくない。しかし、こうした親米・親イスラエル路線、また格差是正に成果を挙げられないムバラク政権に対する国民の不信は、90年代以降の人権抑圧・監視強化に伴って、大きく膨れ上がっている。とりわけ失業率が高い若年層には、強い不満が鬱積(うっせき)していると見られる。

(大迫秀樹 フリー編集者 / 2011年)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムバラク」の意味・わかりやすい解説

ムバラク
むばらく
usnī Mubārak
(1928―2020)

エジプトの政治家。エジプト北部メヌーフィヤに生まれる。1949年陸軍士官学校、1952年空軍士官学校卒業。空軍士官学校教官を経て1967年同校校長。この間旧ソ連に二度留学し、軍事技術を学ぶ。1969年空軍参謀長、1972年空軍最高司令官兼国防次官。1973年十月戦争(第四次中東戦争)での活躍は目覚ましく、1974年空軍元帥に昇格。1975年4月副大統領に任命される。1981年10月当時大統領であったサダトが暗殺されたのち、大統領に就任。サダトの基本路線を継承し、緊密な対米関係を維持。1987年大統領に再選。1990年にはイスラエルとの外交関係を維持したままアラブ連盟への復帰を実現。同年8月以降のクウェート危機ではイラクの大統領フセインに即時無条件撤退を要求。エジプト軍をサウジアラビアに派遣し、連合国軍の一部として参戦。1993年大統領に再々選され、2005年までに5選を果たす。2011年1月、国内全土で大統領退陣や経済改革を求める大規模デモが発生。次期大統領選に立候補しないことを表明したが混乱は拡大したため、2月に辞任し首都カイロを離れた。

[伊能武次]

 2012年6月、デモ隊への発砲を命じた殺人罪により終身刑の判決を受けた。その後、刑務所付属の病院に収監されていたが、やり直し裁判により2017年に無罪が確定し釈放された。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムバラク」の意味・わかりやすい解説

ムバラク
Mubārak, Ḥosnī

[生]1928.5.4. ミヌフィーヤ
[没]2020.2.25. カイロ
エジプトの軍人,政治家。大統領(在任 1981~2011)。フルネーム Muḥammad Ḥosnī Said Mubārak。1949年エジプト陸軍士官学校卒業,1950年空軍士官学校卒業。1952~61年ソビエト連邦に留学。1972年空軍総司令官。1973年第4次中東戦争(→十月戦争)の作戦を立案。1974年空軍元帥,翌 1975年4月副大統領。1981年10月アンワル・サダト大統領暗殺に伴い,国民投票により大統領に就任。アラブ諸国との関係改善に努める一方で,1979年のキャンプデービッド合意に基づくイスラエルとの和平路線を踏襲し,アメリカ合衆国との良好な関係を築いた。1987年再選。1989年5月孤立していたエジプトをアラブ連盟に復帰させた。1991年の湾岸戦争では反イラクの態度をとり,サウジアラビアに派兵,戦争終結後はアラブ内で調停役を演じた。また 1993年のパレスチナ暫定自治協定の成立においても重要な役割を担った。1999年大統領選挙で 4選,2005年には 5選を果たした。2011年1月大規模な反政府デモが勃発,混乱を収拾できず同年 2月大統領を辞任した(→アラブの春)。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ムバラク」の解説

ムバラク
Muḥammad Ḥusnī Mubārak

1929〜  
エジプトの軍人・政治家
軍人としてソ連に2度留学。1969年空軍参謀長,72年空軍司令官。1975年副大統領となり,81年のサダト暗殺に伴い大統領に就任(在任1981〜  )。政治・経済面でサダト路線を踏襲しつつも,アラブ世界内での孤立からの脱却を実現。湾岸戦争に際しては多国籍軍側で参戦,代償として累積債務を帳消しさせた。1993年に3選。

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