モイ(英語表記)Moi, Daniel arap

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モイ」の意味・わかりやすい解説

モイ
Moi, Daniel arap

[生]1924. ケニア植民地,サチョ
ケニアの政治家。大統領在任 1978~2002)。フルネーム Daniel Toroitich arap Moi。21歳で教師になり,ケニアが 1963年の独立に向けて動き出した 1960年代初頭に暫定政権の教育大臣に就任。1964年にキクユ族を中心とするケニア・アフリカ民族同盟 KANUに入党し,内務大臣に就任。1967年から副大統領を務め,1978年にジョモ・ケニヤッタの死去に伴い,大統領に昇格した。急速に権力を強め,野党を禁止し,キクユ族を排除して同胞のカレンジン族を重用した。また,軍部におもねって味方につけ,1982年のクーデター未遂を制圧させた。冷戦の期間にはケニヤッタの親西側政策を受け継いだことで多額の開発援助を確保し,ケニアはアフリカ有数の豊かな国となった。しかし 1990年代初頭に西側諸国から政治・経済改革を要求する声が高まり,モイは 1991年に野党を合法化。翌 1992年実施されたケニア初の複数政党制選挙で,選挙不正の非難を受けながらも勝利した。1997年の大統領・議会同時選挙後には暴動デモが相次ぎ,キクユ族を中心に数百人の死者を出した。モイは,大統領 5期目に圧勝で再選され,政府の腐敗を一掃し,民主改革と経済改革を実行すると公約。1999年に腐敗根絶の取り組みの一環として,国民の尊敬を集める人類学者リチャード・リーキーを内閣官房長に起用したが,リーキーは 2001年に辞任した。憲法の規定上,モイは 2002年の大統領選挙には立候補できず,野党のムワイ・キバキ後継を譲った。

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日本歴史地名大系 「モイ」の解説

モイ
もい

漢字表記地名茂生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入って茂生もい村に包含された。仮名表記は「モイ」以外に異表記をみない。「丁巳日誌」(天之穂日誌)語義について「輪のごとしと云事、少しの湾也」とし、板本「西蝦夷日誌」は「訳して湾なり」と記す。

モイ
もい

アイヌ語に由来する地名。「西蝦夷地名考」では「モイとは入江わどの事也」という。天保郷帳にマシケ持場のうちとして「モイ」がみえる。

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百科事典マイペディア 「モイ」の意味・わかりやすい解説

モイ

インドシナ半島の東部の山地に居住する民族集団の総称。約100万人と推定。フランス語でモンタニャールMontagnardとも。カンボジアではプノン,ラオスではカー,ベトナムではモイなどと呼ばれるがいずれも他称。杭上(こうじょう)家屋または平土間の家に住み,焼畑耕作で稲やトウモロコシを栽培するが,一部に水田耕作も行われる。言語はモン・クメール系ともアウストロネシア系ともいわれる。
→関連項目アンナンベトナム

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デジタル大辞泉プラス 「モイ」の解説

モイ

体操、男子平行棒競技の技。振り下ろし懸垂前振り上がり支持。名称はフランスの体操選手、ウイリー・モイから。

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世界大百科事典(旧版)内のモイの言及

【ケニア】より

… キクユとルオの対立にみるような部族対立の解消のため,初代のケニヤッタ大統領は〈ハランベー(力を合わせて働こう)〉のスローガンを掲げて国民としての統合を求めた。有力部族のキクユ族から出たケニヤッタが亡くなったあと,後継にはキクユ,ルオ,カンバなどの有力部族を避け少数部族のトゥゲン(カレンジンに含まれる)出身のモイ大統領が選出された。今日のケニアでは,公式文書などから部族tribeの語句の使用が控えられているのも,部族意識からの脱却のひとつの努力であろう。…

※「モイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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