ラクスマン(英語表記)Adam Erikovich Laksman

改訂新版 世界大百科事典 「ラクスマン」の意味・わかりやすい解説

ラクスマン
Adam Erikovich Laksman
生没年:1766-?

ロシアの海軍士官,最初の遣日使節。陸軍士官学校卒業後,1786年から95年までオホーツク海北岸のギジンスクの守備隊長をつとめた。父親はフィンランド出身の博物学者エリク・ラクスマンErik(Kirill)Gustavovich Laksman(1737-96)で,イルクーツク居住中,日本人漂流民大黒屋光太夫らと親しく交際したことで知られる。1791年父エリクの奔走によってロシア政府が光太夫らの帰国を許すとともに日本との通商関係の樹立を企てたとき,次男アダムは父の推薦によって使節に任じられた。使節の座乗する聖エカチェリナ号は92年(寛政4)10月根室に到着した。同地で越冬し,93年松前におもむき,幕府から派遣された宣諭使石川将監,村上大学と会見して光太夫らを引き渡したが,通商の申入れは拒否され,代りに長崎への入港証を受け取るにとどまった(この入港証によって1804年にレザノフが長崎に来航する)。1793年秋オホーツクに帰着した。功績によって大尉に昇進したが,96年以後の消息は不明。
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百科事典マイペディア 「ラクスマン」の意味・わかりやすい解説

ラクスマン

ロシア最初の遣日使節。陸軍軍人。父エリク・ラクスマンはフィンランド出身の博物学者で,大黒屋光太夫らと親交があったことで知られる。エカチェリナ2世の命をうけ1792年根室に到着,光太夫らの送還を名目に国交を要求。1793年松前で幕府から派遣された石川忠房らと会見交渉。長崎への入港証は受けとったが通商は拒絶されオホーツクに帰港。著書《日本渡航日記》。→レザノフ
→関連項目海防掛

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラクスマン」の意味・わかりやすい解説

ラクスマン
らくすまん
Адам Эрикович Лаксман/Adam Erikovich Laksman
(1766―?)

最初のロシアの遣日使節。シベリア探検家で、のちにペテルブルグの科学アカデミーの会員となる博物学者、エリク(キリル)・ラクスマンの次男として生まれる。中尉としてカムチャツカのギジギンスクの警察署長に奉職しているときに、エカチェリーナ2世に対する父の推挙により遣日使節に選任され、1792年(寛政4)9月5日大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら3名の漂流民を伴い、シベリア総督ピールの修交要望の書簡を持参し、根室(ねむろ)に来航した。翌年松前(まつまえ)城下で幕府目付で宣諭使となった石川忠房(ただふさ)らと3回にわたって会見、通商を拒否されたが、交渉のためロシア船が長崎に入港することを許す特許状を得て帰国した。この功により大尉に昇進したが、96年以後の消息は不明である。

[小林真人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラクスマン」の意味・わかりやすい解説

ラクスマン
Laksman, Adam Kirilovich

[生]1766. ロシア
[没]1803頃
ロシアの外交官。ロシア最初の遣日使節。シベリア探検家 K.グスタボビッチの子。警察署長の任にあったが,父の極東通商計画が皇帝エカテリーナ2世に承認されたので,皇帝の命により 1792年大黒屋光太夫らを伴って根室,翌年箱館に来航。幕府目付石川忠房らに漂流民を引渡すとともにシベリア総督 I.ピールの公文書を提示して通商交易を要求したが,受理されず帰国した。しかし長崎入港の許可は与えられ,まもなく N.レザノフ来航のきっかけとなった。2度目の渡航計画中に死去。 (→北槎聞略 )  

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朝日日本歴史人物事典 「ラクスマン」の解説

ラクスマン

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:1766
ロシアの士官,最初の遣日使節。伊勢の漂流民大黒屋光太夫の帰国に尽力したフィンランド出身の学士院会員キリール・ラクスマンの次男で,父の推薦でエカテリーナ2世によって,最初の遣日使節に任ぜられ,寛政4(1792)年オホーツクから根室に来航した。この地で越冬したあと,翌年松前において江戸から来た幕府の「宣諭使」と会見し,光太夫ら漂流民2名を引き渡すとともに,通商を申し入れたが,これは「祖法」に反するとの理由から拒絶された。このときかれは27歳の陸軍中尉であった。帰国後大尉に昇進したが,その後の消息は不明である。日本滞在中多くの情報を収集し,動植物,産物などの調査も行った。<参考文献>桂川甫周著『北槎聞略』

(外川継男)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ラクスマン」の解説

ラクスマン
Adam Kirillovich Laksman

1766~?

ロシアの陸軍将校。フィンランド人。父キリル・ラクスマンはロシアに仕えた博物学者で,イルクーツクで大黒屋光太夫(こうだゆう)ら日本人漂流民と接触,また現地官民の希望をうけて対日通商開始を政府に建言し裁可をえた。アダムは1792年(寛政4)その団長として,3人の日本人漂流民をともない蝦夷地根室に来航。翌年松前で江戸幕府の使節と交渉し,漂流民の送還と長崎入港の信牌(しんぱい)をえることに成功。ただし長崎には回航せず帰国。96年以降に没。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラクスマン」の解説

ラクスマン
Adam Kirilovich Laksman

1766〜1803ごろ
ロシアの軍人で,最初の来日使節
1792年,日本人の漂流民,大黒屋光太夫 (だいこくやこうだゆう) ら3名を同行して根室に到着し,翌年,松前でシベリア総督の公文を提示して幕吏と交渉したが受理されず,帰国した。このとき,長崎への回航許可状をもらったことで(ラクスマンは回航せず),このあと1804年にレザノフが訪日した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ラクスマン」の解説

ラクスマン
Adam Kirilovich Laksman

1766〜?
江戸後期に来日した最初のロシア使節
1792年,日本人漂流民大黒屋光太夫らの送還を機会に,皇帝エカチェリーナ2世の命によりシベリア総督の修交要望の書簡をもって根室に来航。翌年松前で幕府と交渉したが,長崎入港の許可証を得ただけで拒否された。彼の来航以後,国内に海防の必要と開国の是非が論じられるようになった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ラクスマン」の解説

ラクスマン Laksman, Adam Kirilovich

1766-? ロシアの軍人。
寛政4年(1792)大黒屋光太夫(こうだゆう)ら3名の漂流民の送還と通商関係の樹立のため,ロシア初の遣日使節として根室に来航。翌年松前で幕府宣諭使(せんゆし)石川忠房らと会見したが,通商交渉は不成立におわり,長崎入港許可書をえたのみで帰国した。著作に「航海日記」。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラクスマン」の解説

ラクスマン
Adam Kirillovich Laksman

1766~96以後

ロシアの陸軍士官,最初の来日使節。漂流日本人大黒屋光太夫(こうだゆう)らを連れ,女帝エカチェリーナ2世の国書を持参して根室に来着(1792年),通商を求めて幕使石川忠房と松前で会見したが交渉ならず帰国。

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世界大百科事典(旧版)内のラクスマンの言及

【エカチェリナ[2世]】より

…外政ではポーランド分割と2度の露土戦争で西方と南方に大きく領土を広げたが,ウクライナと黒海北岸はルミャンツェフP.A.Rumyantsev総督とポチョムキンによってロシア化と開発・植民が進められ,黒海はウシャコフF.F.Ushakov提督などの働きでロシアの内海化した。女帝はシベリア・極東にも注意をはらい,92年にはA.ラクスマンが女帝の親書をたずさえて根室に来航した。女帝はラスコーリニキ(分離派)や異教徒に寛容政策をとり,病院・孤児院を設け,セルビア人教育家ヤンコビチF.I.Yankovich de Mirievoを招いて教育計画をつくらせた。…

【海防】より

…ロシアの千島進出による蝦夷地問題を契機に,林子平,本多利明,工藤平助らが,蝦夷地開発とともに海防の必要性を説いた。とくに,1792年(寛政4),ロシア使節ラクスマンが根室に渡来して通商を求め,江戸回航を主張するに及んで老中松平定信は,長崎以外に海防体制のない欠陥を痛感し,北国郡代設置による北方防備を構想するとともに,みずから伊豆,相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練った。1806年(文化3)以降の蝦夷地におけるロシアとの紛争,08年のフェートン号事件を契機に,10年,会津藩に相模,白河藩に上総,安房の沿岸の防備を命じて砲台を築き,江戸湾防備にあたらせた。…

【大黒屋光太夫】より

…87年ロシアの毛皮商の手代に連れられてカムチャツカに渡り,チギリ,オホーツク,ヤクーツクを経て,89年2月イルクーツク着。そこでペテルブルグ学士院会員のガラス工業家エリク・ラクスマンの知遇を得,91年ペテルブルグに同行して女帝エカチェリナ2世に謁見,帰国を許され,翌年エリクの子で遣日修交使節のアダム・ラクスマンの船で根室に帰着した。長崎入港許可証を与えられて使節が帰ってのちに江戸に送られ,将軍家斉,松平定信らに見聞を伝え,その後は番町の薬園で一生を終えた。…

【フィンランド】より

…しかし,短期間で世界各国が驚くほどの経済復興を遂げ,以後,努めてソ連と友好を保ちながら,西側陣営に接近する政策をとってきている。
【日本との関係】
 日本が初めて接触したフィンランド系の人物はA.ラクスマンで,漂流民大黒屋光太夫らの送還と通商交渉のため,1792年(寛政4)ロシアの使節として根室を訪れた。彼の父キリル・ラクスマンはフィンランド生れの博物学者で,イルクーツクに滞在中の光太夫と親しくなり,エカチェリナ2世に日本への使節派遣を進言した人物である。…

※「ラクスマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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