リチャード
[一] (一世)
プランタジネット朝の
イギリス王(在位
一一八九‐九九)。獅子心王。第三回十字軍に出征。帰国後、フランスでフィリップ二世の軍と交戦して
戦死。勇敢、寛大で中世騎士の
典型とされた。(
一一五七‐九九)
[二] (二世) プランタジネット朝のイギリス王(在位
一三七七‐九九)。
エドワード黒太子の子。議会を強化して貴族勢力を抑えたが、のちに専制化したため、不平分子を糾合した
ランカスター家の
ヘンリーに捕えられ、議会も
廃位を決定。かわりにヘンリー四世が即位して
ランカスター朝を創立。リチャードは暗殺されたといわれる。(
一三六七‐一四〇〇)
[三] (三世) ヨーク朝最後のイギリス王(在位
一四八三‐八五)。エドワード四世の末弟。兄王の
死後、その子エドワード五世およびその弟をロンドン塔に幽閉して
王位についたために国民の支持を失い、八五年、後のヘンリー七世の
来攻にあって
敗北。(
一四五二‐八五)
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デジタル大辞泉
「リチャード」の意味・読み・例文・類語
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リチャード
Timothy Richard
生没年:1845-1919
イギリスの宣教師。中国名は李提摩太。ウェールズに生まれ,英国バプティスト伝道協会に属した。1870年(同治9)に山東省で伝道を開始したが76年(光緒2)に大飢餓を経験し,その救済運動を通じて政治改革の必要を痛感して中国官僚に建言するようになった。洋務派官僚に一定の影響をおよぼしたが,さらに体系的に近代化を促進するため広学会に加入して欧米著述の翻訳につとめた。この結果,変法運動に積極的な影響を与えたが,変法派の挫折以後は政治に消極的になった。漸進的な改革を主張した彼は孫文らの革命派には共感を抱けず,1916年には中国を離れた。
執筆者:春名 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
リチャード
Richard, Thimothy
[生]1845
[没]1919.4.17.
イギリスのバプテスト派宣教師。中国名は李提摩太。中国伝道に尽力し,山東,山西地方の飢饉の際には住民の救済に努力した (1876~77) 。北京でキリスト教および一般知識普及会 Society for the Diffusion of Christian and General Knowledgeの主事となる (91) 。 1891年上海で纏足禁止の運動を起し,また山西大学を設立してその学長をつとめた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
リチャード
生年月日:1209年1月6日
イングランド国王ジョンの第2子
1272年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報